初版:1998年09月 新潮社
蔵本:2002年01月 新潮文庫
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外部からの干渉を嫌い孤立した集落・外場村。そこへ一軒の洋館が移築された。猛暑の夏、その洋館への住人の引越しに前後して起こる異常な出来事の数々。祠の破壊、真夜中の引越し、原因不明の死者――。
不透明なまま事態が進行するなかで村人たちはそれぞれに真相を探り、あるいはただ解決を待ち望む。そのすべての人々を巻き込んで、外場村は着実に死に席巻されていく。
外場村がひとつの災厄に見舞われ、瓦解するまでを綿密に描ききったのがこの『屍鬼』という小説だ。
外場村は血縁と地縁がはりめぐらされ、外部からの干渉を避けてひっそりと孤立している。多くの村人たちが登場するために人物関係をすべて把握するのは少し骨が折れるし、分厚い文庫 5 冊という長さは確かに多くの時間をかけなければ読了できない。
けれど、多少煩雑になろうとも多くの人々を登場させ、数千枚におよぶページ数をついやすだけの価値が、この『屍鬼』という小説にはある。
外場村は寺、村長、医者の三家を中心に結束している。読んでいる間中、その寺の若御院に、私はどうにも惹かれてやまなかった。
品行方正を絵に描いたような若き住職である静信は、しかしその内側に、自分でも把握しきれない闇を飼っている。その闇がなにものであるのかが解き明かされる過程が、ストーリーのもうひとつの主軸だ。
主要人物のひとりである沙子 (すなこ) との会話、そして静信自身が書く作中作によって、その闇は姿を現してくる。全 4 部で構成された『屍鬼』は、第 4 部 (文庫版でいう 5 巻) に入ると急速に事態の終焉に向かい動き出す。この 4 部での静信のふるまいが、私には強く心にのしかかった。
読みながらずっと抱えていたのはなぜ、という想いだった。第 4 部の終盤において、やはり沙子との会話のなかで、その疑問には答えが提示される。私はその答えがわかるようでいて、おいそれと理解したと言ってしまっていいのかわからない。示された答えはそれほど、一般からかけはなれたものだった。うなずいてしまえば、それは世界から遠く隔たることを意味するほどの答えだ。
おそらく、ひとつの村の崩壊を主軸として見るのがごくふつうの感想の持ち方なのだと思う。けれど私は静信の書いた作中作と、そしてそこに示された静信の答えに最大のテーマと意味を見てしまった。
このような感想を抱いてしまうのは、人の在りようを丹念な筆で描く、小野不由美という作家の手腕によるものだと思う。
読み終えてページを閉じてしばらく呆然とし、その後静信のふるまいを想って泣いた。
最初は静信に共感して自分は泣いているのだと感じていたのだけれど、改めて考えてみると、おいそれと共感ということばを持ち出すには彼はあまりにも特異な心の動きをしたことを思い起こさずにはいられない。
ならば憐れみだろうか、それとも恐怖だろうかといろいろに可能性を思い浮かべてみたものの、なにがあふれて涙になったのか、自分の内をのぞけばのぞくほどわからなくなる。
ひとつの村をまるごと舞台にした『屍鬼』には、途方もないほど多くの登場人物がいる。網の目のような血縁につながれた彼らのすべてを、一読しただけではなかなか把握しきれない。間違いがないのは、その多くの人々のなかで私はだれよりも静信に心動かされ、同調していたということだ。
誤解されるだろうことを覚悟で言うと、読まなければよかったと思った。
小野不由美さんは、なんの遠慮会釈もなくじかに感情に触れる小説を書く人なのだと痛感させられた。文字通りの痛感だ。
なにものも媒介にせず直接感情に触れられることほど、痛いことはない。痛みというよりも、痛いと知覚することもできないほどの強すぎる刺激だ。
読んでいる最中もなんどか嗚咽がもれだけれど、すべて静信にかかわる場面だった。私はなににこれほど反応しているのか、それが見えなかったために、私は読了後に呆然としてしまったのかもしれない。
読まなければよかったと思うほど強い小説を読んだ経験は、思い出せる限り、とても少ないものだ。その少ない経験則があてになるのであれば、時間が経ち、強すぎる刺激をどうにか消化し飲み込むことができれば、そのときには、おそらくかけがえのない存在に昇華されるだろうと思う。それまでの時間は、じっと忍んでいるしかない。