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『愛の生活・森のメリュジーヌ』 金井 美恵子
愛の生活・森のメリュジーヌ
初版:1968年08月 - 1979年07月  筑摩書房等
蔵本:1997年08月 講談社文芸文庫
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 一日の生活を硬質な描写でつづるなかで、わたしの F への愛を語る「愛の生活」。
 我が身を顧みず恋しい女性をただ求めつづける究極の姿をえがいた「森のメリュジーヌ」。
 10 編の中編や掌編を収録。

 収録された 10 編の小説のいずれにも “書く” という行為が濃密にただよっていて、えがかれている世界に体ごと入りこむように、あるいは体のなかにすべてを染みこませるようにして読んでいた。

 全編読了したうえでもっとも印象深かったのは「兎」。父子は毎月 1 日と 15 日に、飼っている兎を絞めて夕食にする。
 残虐な行為や人の狂気がはっきりと描写されているのに、そこに嫌悪感をいだくという正常な判断を持てる余裕がないほど、金井さんによって示される世界は独自の濃密な観点で埋め尽くされている。
 彼女の父への愛情はゆがんでいるのだろうし異常なのだろう。けれど、それでも愛情であることに変わりないのだ。異常なものは限られた世界でしか存在できないけれど、だからこそその強さは行くあても捌け口もないままに、果てしなくただ煮詰まっていくのだと思う。

 「兎」にかぎらず、気分の悪くなるような描写は多い。なのに全編が不思議な透明さをたたえている。
 内容をうまく思い出せない夢のように、とりとめなくリアリティもない。ストーリーの軸は横滑りし続けて骨格を持たない。けれど読み終えたあと (目が覚めたとき) 確かに、自分の内側でなにかが動いたという感触が残っている。
 解説の冒頭におもしろい考察がされているけれど、金井さんの書くものにはたしかに愛が濃厚にただよっている。ただ、その対象はいつでも判然としていない。だから愛はただよい続けるしかなく、営みや生産といった健全さを持てない。たとえ始まりには純粋だったとしても、あてどなくさまよい続けるなかで愛はなお純粋さを保てるものだろうか?

 最後に収録された「プラトン的恋愛」中の一文、「主人公の前から姿を消してしまう不在の《彼》もしくは《彼女》とは、」――というくだりを読んだ瞬間に、この本をいつかもう一度読みなおさなければと思った。
 自分の内側で動くなにかは、たぶん読むたびに違うものなのだろうという気がしている。
2008.12.01