初版:1999年08月 文藝春秋
蔵本:2002年09月 文春文庫
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メザキさんと呼ぶ男と蝦蛄を食べに行った帰り道、電車もなく車も通らない暗い道をふたりで歩くことになった。太くも細くもならない道を長く歩いた夜。――「さやさや」
8 つの短編でつづる、男と女の物語。
川上さんは前に『センセイの鞄』を読んだことがあって、それが読書記録を見てみると 2006 年の 11 月のことだった。読んだ当時は、川上さんの文章はとらえどころがないような幕一枚をへだてられているような気がして、どうしようもない違和感を感じてしまって仕方がなく、ちっとも好きになれなかった。
それが、去年の 9 月に yom yom の vol. 7 に収録された「ゆるく巻くかたつむりの殻」を読んでものすごく好きになった。それで、川上さんの小説をもう一度改めて読んでみようと思っていた。
タイトルの『溺レる』とは、アイヨクにオボレるということ。8 つのごく短い小説が収録されている。そのすべてがひとりの男とひとりの女の話だ。女の一人称で書かれる、恋でもなく愛でもなく、アイヨクの物語。
アイヨク抜きの愛はない、と個人的には思っている。だから、全編を通してどの男女もアイヨクにオボレていることが私にとってはとても生々しくて、人々が生身の人間のように迫ってくる。
どの話に登場する男女もそれぞれに奇妙だ。どこにでもいるようにも見えるし、「“ふつうの人” などというのは存在しない」という考え方をするのなら、どこにでもいる人らだと言ってもきっと間違いではないのだろう。
それでもやはり、彼らは奇妙だと思う。人がよりあつまって生きているとどうしてもできてしまう枠のなかに、いることができない。はみでるというよりも、はっきりとその外側にいる。
そんな人々でも “ふつう” の面もあるはずだとは思うのだけど、川上さんは “ふつう” のところを書かないで彼らの人とはちがう部分だけをすくいとって書いている。おかげで、彼らの世間から浮いてしまった部分ばかりが凝縮された小説になる。ぽんと始まってぽんと終わるのは、“ふつう” の部分を一切省いているからだ。
全編読了してみて印象に残っているのは、「可哀相」と「亀が鳴く」。
「可哀相」では、女は男に痛くされる。谷崎を筆頭に、私は嗜虐心の持ち主や被虐心の持ち主が描かれた小説に強く反応する。私自身がそういう傾向を持っているからだと思う。読みながらずっと、背筋の冷えるような体の芯の熱くなるような、おかしな心持ちだった。
そして、「亀が鳴く」。身の回りのすべてがさだかではない女が一緒に暮らしていた男に別れを宣告される話なのだけど、女が男に向けて言う「沈んでいっちゃうよ、私といると」というせりふが心の底の真ん中にすとんと落ちてきた。私も同じことをいつも思っている。一緒にいる人を沈めてしまうから、本当に大切にしたい人の側にいることはできないという感覚をいつも持っている。この女と自分が似ているとは思わない。共感したわけではない。ただ、分類の仕方によっては同じ系統に属するんだろうなと思った。
『センセイの鞄』を読んだときにちっとも良さを理解できなかった理由が、『溺レる』を読んでみて少しだけわかった気がする。きっと私は、川上さんの小説を読んで楽しむなりのめり込むなりするには、まだまだ年が足りないのだ。
川上さんの書く男と女のあいだにあるものは私にはきっとまだとらえきれない。目の前になにかがあるのははっきりとわかるのに、それが密度高くまやかしのない真実のものであることはわかるのに、丸いのか四角なのか球なのか、大きすぎてちっとも把握できない。
それでも、2 年前にはちっとも面白くなかったものがどうやらもっと時間が経てば面白いと感じられそうだとわかっただけでも、少しずつ川上さんの小説がわかるときに近づいているのだと感じられる。今のところはそれで満足しておくことにしよう。そして、川上さんの小説を力まず楽しめるようになるまでに少しでも多くのことを体験して、その時にはより深く理解できるようになっていよう。