初版:1994年12月 新潮社 (絶版)
持本:2007年09月 ソフトバンク文庫
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引越しを間近にひかえた小学校 5 年生の夏。夏休みもなかばを過ぎたころ、見晴は近所の鉄塔に番号板がつけられていることを発見する。
鉄塔ひとつひとつに番号がふられているなら 1 号鉄塔があるはずと考えついた見晴は、2 学年下のアキラを引き連れて鉄塔 武蔵野線をたどる冒険に出発する。
語り手が少年時代を追想するかたちでつづられている。実際には創作なのだけれど、その内容は、鉄塔が大好きな少年が自宅ちかくの鉄塔から送電線をさかのぼり、最初の鉄塔までたどりつこうというもの。
この小説は、見晴とアキラが鉄塔をたどっていく様子を丁寧に描写することでつながっていく。500 枚以上の写真にもささえられてその描写の綿密さは一般の小説から群を抜いているけれど、鉄塔を追っていくという工程そのものは当然ながら至極単調なものだ。そうなるとストーリーそのものも単調になるのではないかとあやぶまれるのだけれど、不思議とそういうことがない。
その理由はすべて、見晴とアキラの存在のためだ。鉄塔の構造を詳しく解説しているからでも、ひとつひとつの鉄塔を見つけるたびにドラマがあるからでもない。
ただ鉄塔をたどっていくなんてことは大人は考えもしないし、思いついたとしても実行にうつすだけの向こう見ずさはもう失ってしまっている。
「1 号鉄塔のそばには秘密の原子力発電所があるんだ」という見晴の発想も銀色のメダルも、アキラが自分で自分にみつけた役目や秘密の合いことばも、小学生だけが持ちえる常識という垣根を持たない世界だ。
真夏のうだるような暑さのなかをただひたすら鉄塔だけを追いかけて走っていく。そんな思い出は、生涯のうちで小学生という時間にしか持ちえないものだ。
見晴やアキラの探検のようすを読み進めるなかで、退屈することはあるかもしれない。けれどその退屈はそのまま、見晴やアキラが鉄塔を追い続けて鉄塔に飽きてくる、その気持ちと通じている。読者は見晴やアキラに共感することはあっても、彼らを外側から見て彼らの行為に退屈するということはないのだ。
『鉄塔武蔵野線』は鉄塔をメインモチーフにした鉄塔小説だけれど、それだけでは珍しい小説ではあっても人の心をこうも惹きつける小説にはなっていなかっただろうと思う。人の記憶や心を丁寧にひもといてえがきだす銀林さんの筆力があってこそ、『鉄塔 武蔵野線』は魅力的な夏の探検物語として生きてくる。
あるいは、人々が気にとめることのない鉄塔という存在に幼いうちから気づくような目を持っている方だったからこそ、子どもの心をそっくり小説のなかに再現するなんてことができたのかもしれない。