
初版:1933年12月 創元社
蔵本:1951年01月 新潮文庫
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美しいが驕慢な春琴と、盲目の彼女に付き従う佐助。
2 つの遭難によって春琴の生涯は曲がっていくが、少女時代から仕え続ける佐助は生涯を春琴に捧げて過ごした。
谷崎の小説はいつでも私にとって魅力的だけど、70 ページのなかに谷崎のエッセンスが凝縮されたようなこの小説は読んでいてとても心地よかった。
2 つめの遭難によって変質した春琴と佐助の様が、悲しくて美しい。
谷崎の作品には倒錯した人間、とくに被虐心の強い人間が多く登場する。私は谷崎作品はそれほど読んでいないけど、被虐心の純度の高さは佐助が一番のような気がする。
マゾヒストが痛みや虐げられることを求めるのはそれに快感を感じるからだけど、佐助はきっとそこを意識していない。ただ、春琴に奉仕することが自然なことだと感じるからそうしているだけなんだろう。
そして、その自分の「奉仕していたい」という欲求のためには春琴の弱さや寂しさを認めてやらない。無自覚な欲には果てがない。これはいつも考えていることだけど、マゾヒストは傲慢な人が多いと思う。
佐助にとって、春琴の価値は彼女が主人であるというところにあったのだろう。
春琴が弱々しく自分を求めたり対等な者として自分を愛したりすれば、それは佐助にとっての春琴の喪失を意味する。だから、ふたりの距離は佐助の欲のために永遠に近づかない。佐助にとって、春琴は遠いところにいる女でなければならない。
自分が女だからかもしれないけれど、私は春琴の心情を想像してしまう。
差し伸べられる前から退け続けた手を、2 つめの遭難によって心寂しくなり求めるようになったときに、「あなたは私の主人で居て下さい」と言外に強く匂わせる佐助に気がつく。佐助は女としての自分を求めていると思い続けていたのに (“人間としての” と言ってもいい)、主人としての自分しか見ていないことに思い至ったときの春琴の心のうちはどんなだっただろう。
差し伸べられ続けていると信じていた手は、一度として春琴を女として求めていたことなどなかった。ひとりの女になりたいと思ったとき、それを許されないのはどれほどのつらさだろう。
けれどそれでも、主従の関係、師匠と弟子の立場を生涯貫き通したふたりという春琴と佐助の構図はどこまでも美しい。その美しさが、春琴の悲しさを助長する。佐助の独りよがりな奉仕が崇高に見えてくる。
舞台化・映画化が多くされているのが納得できる。たしかにこれは、“自分で表現してみたい” と思わせる小説だと思う。