初版:2004年03月 文藝春秋
持本:2007年02月 文春文庫
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やがて視力を失う朔也とその母を愛した医師は、家庭を捨て二人のための人生を選んだ。――「弱法師」
編集者の愛を手にするため、小説を書き続けたひとりの作家。――「卒塔婆小町」
父と母、そして父の姉である伯母の関係のなかで育ったひとりの少女。――「浮舟」
激しい異端の恋を描いた 3 つの短編。
中山さんは以前からとても好きな作家だったけど、『弱法師』では今までの作品にあった痛ましいほどに生々しく、そして気迫のこもった性描写が消えて、それよりも先の世界へぐんと広がっているような気がする。まっすぐに描かれるセックス描写は中山さんの特徴のひとつだったと思っているけど、そこを抜けさらに広がった視野で愛を書いていることが、一ファンとしてうれしくてたまらない。
今まではビアンの女性の恋と愛と性だけを書くことに全力をそそいでいた、そのために精魂使い果たしていた中山さんが、『弱法師』ではビアンの女性を取り巻くほかのさまざまなものにまで目を向けているように感じられる。これまでも好きな作家のひとりではあったけど今改めて、特別な作家だと痛感している。
なかでも、2 編目の「卒塔婆小町」に心を大きく揺り動かされた。今の自分に重なる部分が多かったからというのが、その大きな理由だ。
柳原百合子という女性を、私はとても近しく感じていた。彼女が周囲の男たちにつらぬき通した態度、深町の持つ純愛に復讐したいと思ったその衝動、社長との口論で感じた悲しみ、すべてに対して痛いほど共鳴しながら読んでいた。
読み始めてから読了まで、味わう余裕もなく、与えられる甘い水をただひたすらにむさぼり飲むような読書だった。
中山さんの書く文章は推敲が練りに練られて洗練され、するすると身のうちに入ってくる。この読みやすさは一語一語にまでなされた中山さんの心配りの結果で、読みやすいだけで中身のない小説とはちがう。それは、読了後にいかに『弱法師』という小説が自分の内側を占めているかではっきりとわかる。
中山さんの描く愛はいつでも捨て身の愛で、相手とともにこの世界からこぼれ落ちていってもかまわないという愛だ。健全さや正しさに価値基準を置くなら、非難の嵐にさらされるような愛。あるいは我が身を一切ふりかえらないその様に、同情されるような愛でもあるかもしれない。だからいつでも痛々しくて、私は読んでいる間じゅう、泣くことをおさえられない。涙というかたちにはならなくても。
それでも、(力強く「それでも」と反駁せずにはいられない思いに駆られるほどに) 作中に登場する人々は決して不幸ではないし、私は読後に必ず希望や光りを感じられる。その希望は救いがあるという希望ではなく、それでも愛しているや、それでも愛してよかったというような、絶望や苦しみをすべて抱えた希望だ。
どちらがより人にやさしい希望なのか、どちらが健やかでまっとうな希望なのか、それは議論の余地もなく救いがあるという希望なのだと思う。ただ、そこからはこぼれ落ちてしまった者、そんな希望にはまぶしすぎて手をのばせないという人々に「それでも」といってさしだされるのが、中山さんの書く希望なような気がする。
相手も自分も殺してしまうような嵐のような愛を知らずに生きてゆくことは、決して不幸なことではない。けれど同時に、そんな愛を知っている中山さんのえがく人々は皆が皆、これ以上はないというほどに満ち足りているように見える。