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『日野啓三自選エッセイ集 魂の光景』 日野 啓三
日野啓三自選エッセイ集 魂の光景
初版:1998年12月 集英社
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 小中学生時代を朝鮮で過ごし、そののちに引揚げを体験。韓国・ベトナムの特派員を経て小説家となった日野啓三。
 ものごとを飾ることを忘れたように、見たありのままを書きとる筆致でつづられるエッセイ集。
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 感性をまるきりそのまま言葉にしているような文章で、ゆっくりと自分に染み込ませるようにして読んだ。こんなに知れてよかったと思う本は久しぶり。ところどころに共感してやまない言葉や感覚が書かれてある。
 闇を直視はしない、見えたものそのままに言葉にしたりしない、ごまかしと曖昧さを上手に使う。それはとても普通のことでそれができるのは重要なことなのだけれど、真実やありのままの世界の在り様を見てしまった人にはもうそれができない。

 1 作目の「焼け跡について」というエッセイ。こんなにも年代が離れている人物の感性や心を理解できると言ってしまう自信はないのだけれど、それでも、自分は著者と同じ感覚を持っていると思う。どうしようもなく、そう感じてしまった。
 人間的であること (もっと単純に言ってしまえば人間自体) がもっとも自分が親しむべき感覚である、という考えを私はどうしても持てない。人間嫌いというのとも違う。ただ、人間を特別視することができない。
 それは相対的にみれば、普通よりも人間を大切にしていない、人間性に欠けるということになるのかもしれない。思いやりがない、人間関係に対してドライ過ぎると見ることもできだろう。それを否定する気はないし、否定できるとも思わない。

 ただ、それほど人間を特別視する理由はなんだろう? 私には、自分が人間だからという以外の理由は思いつかない。人間を特別視しないということは自分を特別視しないということにもつながる。それはたしかに厳しいことだ。誰だって大なり小なり、自分は特別だと思いたいものだ。もし自分ひとりが特別にはなれないのなら、人間という全体がそもそも特別なんだと考えたくなる。さらに付け加えれば、自分が特別でないと認識するのは生き物として、とても危険なことなのかもしれない。生命の危険が迫ったとき、瞬間的に自分を守ることを優先できないかもしれない。
 けれど、私はニュートラルな視点を持つことに慣れてしまった。一般的な人間性を得るために自分の考え方を変える必要を感じられない。人間が特別自分に近しいものだと考えることは、私にはもうできない。少なくとも今のところは。

 また、「赤い月」という短いエッセイについて。
 世界が自分に害をなすことがあってもそこに悪意はないと思いたいし、生きてゆくということは希望だと信じていたい。誰だってそうだろう。そうしなければ、世界に警戒しながら、生きることはいやらしいものだと感じながら歩いていかなければならない。自分は世界から嫌悪され、生きることは泥のように気持ちの悪いものだと信じていたい人など、たぶんどこにもいない。そして、大抵の人は (私も含めて)、人は世界と生きることに対する明るい思い込みに成功する。生まれたときからずっと、周囲がそう信じさせようとしてくれ自身もそう信じたいと強く思いながら成長する。

 けれど日野啓三というひとには、あるがままの世界がどうしても見えてしまうのかもしれない。たしかに私はこの日野啓三というひとの感覚に共感することが多々あるけれど、それでも、彼ほどの深い暗さは知らない。なぜ彼の視野はこうも “普通の人” と違うのか、それはとても理解できない。
 この世界で安らかに生きるには、きっと彼はよく見えすぎるんだろう。

 生まれた年に 60 年以上の隔たりがある筆者と自分に、表面的に明確な共通項があるとはとても思えない。それでも、筆者の語る言葉や見えているものは不思議なほどすんなりと、私のなかに実感として了解することのできるものばかりだった。筆者の言葉を通して追体験してる感覚も何度もあった。それは単に日野さんの文筆力によるものかもしれない。確かに、とても的確にものを表せる人だと思う。無理な言葉の押し付けで事象や意識、思考を捻じ曲げてしまわない、そこにあるものに対してとても忠実な書き方をする人だ。
 けれど、それだけではない、と強く思う。どこか私には日野さんと通じる場所があるのだと (それが思考なのか意識なのかはわからないけれど)、そう信じたいと思われてやまない。

 あれこれ書くよりも、気になった部分を覚え書として引用しておく。

「狂気とは世界のあるがままの姿を、あまりに正確に映す意識のことにちがいない。不正確になればなるほど、人は正気になる」
p. 54


根源的なリアリティーを正確に感じとり表現するためには、あえて不明確であることが必要であるにちがいない。
p. 63


彼らのほとんど無意識の非社会性 (意志的な反社会性ではなく) は、人間関係の過負荷 (オーバーロード) から人類の脳を解放する、というネガティヴな進化の役割を果たしつつあるように、私には見える。
p. 182


つまりこの文章は、夜明け方の夢や真っ昼間ふっと落ち込む意識の空白を除いて、だらだらと続く日常的、生活的、単純な因果律的な時間の連なりと空間の広がりを、写実的に記述してそれをリアリズムと呼ぶそのいわゆるリアルさを、絶対に「ほんとうのこと」とは考えも感じもしない人間の文章である。
p. 235


無意識なるものの意識化こそ文字の使命
p. 241


「書くことは、話し言葉の領域とは違う領域からやってくる」
p. 242
2008.07.29