初版:1993年07月 パロル舎
>> Amazon.co.jp
ぼくの恐竜、メカザウルス。
青いガラスのかけらを目にもったすてきな恐竜にふさわしい場所を探し出し、少年はそこにメカザウルスを置いた。
ただそれだけのことだったのに、それをきっかけにして、少年のまわりで奇妙な現象が渦を巻き始めた。
主人公の男の子の一人称で進む文章はとても読みやすくて、そしてあけすけな毒と悪意にあふれている。正義と対立する排除されるべき毒ではなく、正義となんら変わりのないひとつの感情としての悪意。
悪意も善意も持ってしまったんだから仕方がないじゃないか、というのは間違いではない。間違いではないけれど、そう言ってしまうと誰もが困ってしまう。悪意を持つことを悪にしないで、世界は回れない。だから、善意はよいことで悪意はだめだから持っちゃいけない、ということになっている。
けれどそうやって理屈のために現実を否定することを子どもはしない。だから、黒く染まっていないありのままの悪意がそこにある。死体、廃墟、マネキン。そういう言葉を人に当てはめて使うことに罪悪感を持たない。なぜならそれが彼にとっての事実だからだ。
主人公の櫂は忘れることができないということを恐れている子どもで、これは精神年齢が高いとかっていう話ではなく、きっと人として (普通の生活を送るための人として)、あまりにも重大な欠陥だと思う。
忘れたくないという欲求は、もしかしたら死にたくないというよりも大きな、人間の持つ本能じゃないかと思うからだ。根源的なところで周囲とちがう人はうまく生きられない。生き方のうまいへたは、世界が決めるものだからだ。
櫂の持つ意識と見えている世界はあまりにも他のすべての人間とかけ離れていて、だれも櫂の見ているものが見えない。櫂が子どもだからということもあって、櫂が自分とちがう世界を見ていると想像できる人間すらいない。
そんなその他の人々に、櫂はちがうんだ、と叫ぶしかできない。間違っているのに、そうじゃないのに、偽物なのに、伝わらない。孤独ではなく孤立。そんな場所に櫂は立ち続けているし、これからもそうだろう。
人は自分と同じものを見ていない。これを実感することは、自分のなかにひとつ絶対的な諦めを抱えることだと、私は思う。その時期として、櫂の年頃はたぶんまだ早かったのだろう。けれど、早かったからといって 1 度持った実感を消し去ることは、できやしないのだ。受け入れて、どうやっても諦めるしかない。
読み終わって、なにも残らない、空虚だけが残る小説だった。たとえば絶望とか憎悪とか、やるせなさとかむなしさとか、そういうものがずっしりと残る小説はたくさん読んできた。けれど、ただからっぽだけが残るというのは、初めての経験かもしれない。
どこでもない場所で起こったこの世界では起こりえなさそうな出来事。望みやしなかったその渦の真ん中に置かれた櫂の、これはどんな物語なのか、どの言葉を使っても私には説明できない。