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『海』 小川 洋子
初版:2006年10月 新潮社
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 恋人の家族の元へ結婚の承諾を得るため向かった青年が、恋人の弟と一晩語らう。弟は彼にしか弾けない楽器を奏でるという。――「海」
 掌編から短編まで、奇妙で愛しい 7 編を収録。

 一番心に残ったのは「バタフライ和文タイプ事務所」だった。タイピストとして勤め始めた「私」が活字を通して活字管理人と語り合い、やがて顔も知らないままに彼に惹かれて行く。言葉や文字を愛している私は、活字が物語の中心にいるこの短編には否応なくまいってしまった。

 活字は、それ自体は無味乾燥のものだ。人が見て読んだ時に初めて、匂いを得て感触を持ち、活字が指す現実のものものと繋がっていく。活字を見て思うものはすべて、その人間のなかから湧き出てくるものなのだ。活字自体はなにも持っていない。
 そんな活字という存在を通すから、「私」はどんな淫靡な言葉も口に出せてしまう。活字のことを語っているに過ぎないという体を装って、彼女は活字管理人の彼と淫らな言葉のやりとりを交わす。
 また、活字が空白の存在であることは、小説に淫靡さを見出してしまう読者に背徳感を押し付けてくる。想像力が豊かであればあるほど読者はこの作品に裏切られる。なんというトリックだろう。

 小川洋子さんという作家は私にとって、生々しく気持ち悪い描写で独自の世界観を築き上げる作家だった。『博士の愛した数式』という例外的一作をのぞいて、「生々しい気持ち悪さ」というのは小川さんとは切り離せないものだと思っていた。
 それがこの『海』を読んで、小川さんの他の面を知った。小川さんらしいなまぐささを覗かせながらも、どこかユーモラスで温かみがある。小川洋子さんの深みをまた知った一冊だった。
2010.03.28