初版:1985 年 9 月 ダイヤモンド社 (『ふたたび勇気をいだいて――悲嘆からの出発』)
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ユダヤ教の教師・ラビである著者が、幼くして亡くなった息子の死を通して「なぜ人は苦しむのか」という問いにひとつの答えを示す。
私は神を信仰する必要を感じていない。何者かに救って欲しいという思いがないからだ。そんな私が、「こんな存在ならばいてくれれば嬉しい」と思うような神の姿がこの本には提示されていた。神は苦しむ人々の側に寄り添い、共に苦悩しているのだという。
幼い息子を難病で亡くした著者がこの考えに至った一連の思考の出発点は、「特別善人でも悪人でもない人々がなぜひどい目に遭うのか?」という疑問だ。
宗教は神の正当化をするばかりで人を救っていないと著者は指摘する。人々は「この世に起こるすべてのことは神の意思でなければならない」と考えている。理由もなく災いが起こると考えるのが恐ろしいからだ。だから、傷ついた人々に対して「お前に災いが起こったのはお前の行いが悪かったのだ」と、災いの原因を被害者に見つけようとする。
しかし、それは傷ついた人々をさらに痛めつける行為だ。神の裁きは正しいと言って神を正当化するために、宗教を信仰する人々が人を傷つけている。
著者は、すべての事に理由があるわけではないし、ましてや災いが神の意思なのではないと断言する。
「なぜ普通の人々が苦しむのか?」それは、災いは人を選んで起こるものではないからだ。災い神による裁きではない。神を災いを起こしはしない。災いが起こった時、神は苦しむ人々と共にいるのだという。そして彼らの姿に苦悩し、同情している。
傷つかないように人と世界を操るのではなく、傷ついた人の側に居て共に嘆き悲しんでくれる神。信仰心を持たない私にとっても、好もしい神の姿だ。
「全知全能の神がこの世のすべてを動かしている」という思想に違和感を抱く人には、ぜひ読んでみてもらいたい。ひとつの答えを見つけられると思う。