初版:2008 年 3 月 メディアワークス
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突然蔓延した奇病によって、世界はゆるやかに滅び始めていた。「喪失症」にかかった人間は名前を失い、色彩や影もやがて薄れ、最後には存在自体が消え去ってしまう。
正常な機能を失った世界で、「喪失症」にかかった少年と少女はスーパーカブに乗って旅をしている。道中では「喪失症」に対峙する人々と出会いながら――。
誰もが「喪失症」によって名前を失っているために、この小説には個人名がひとつも出てこない。名前を持たない人々の物語は一種の童話のような雰囲気を醸し出している。
ゆるやかに崩壊する世界というと有川浩の『塩の街』を思い出すけど、『塩の街』は現実と対決して解決する人間の力が主眼だ。対して、この本では「やがて自分は消える」という結末は動かない。生き残るという道が閉ざされた上で自分の身をどう振るか、それがこの本の焦点になっている。
「喪失症」による絶望は生涯を賭けるような大きな願いすら手放させる。けれど同時に、正常な世界では日常に埋没していくような小さな願いに人を急き立てる力にもなる。
諦めと行動を分けるものはなにか。それは、少年と少女を見ているとわかってくる。
主人公のふたりが見据えているのは今この時に何をするかということだけだ。先行きがどうなるかなど気にしない。自分は何をしたいのか、それだけを考えて生きている。
投げやりに生きても最後まで足掻いても結末は変わらない。それでも(むしろだからこそ)、少しでも満足できる道を選ぶ。「結末が決まっているからといって過程まで諦めることはない」という、言うだけなら簡単でも実行するには並大抵の胆力では足りないはずのこの理屈を、少女の爛漫さと少年のしたたかさは力強く体現してしまう。
このふたりには不思議なほど暗さがない。それは、今自分はやりたいようにやっているという自信から来るものなんじゃないだろうか。
この奇妙な物語を読み進めながら、読者は「自分ならどうするだろう」と考える。遠くない未来に自分の存在は世界から消え、その痕跡を残すことすら許されない。そのとき自分は何をするか。
この問いに対する答えはこの小説のなかにはない。ひとりひとりが自分のなかから見つけ出すしかないからだ。人の答えは何の役にも立たない。読者がそれぞれ考えて答えを出すしかない。ただ、少年と少女のやり方は見本のひとつになるだろうと思う。