Nineteen Eighty-Four
翻訳:高橋 和久
初版:2009 年 7 月 早川書房
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架空の未来における全体主義国家に生きるウィンストン・スミスは、党員のエリートでありながら反政府の思想を持ち始める。彼は、恋人となった女性とともに反政府地下組織への接触を図る――。
フィクションを現実への警鐘として受け取ることはあまり好きじゃない。現実とは切り離された世界だからこそ、楽しめも悲しめもすると思うからだ。
けれど、『一九八四年』はそうも言っていられない。これを単なる空想世界だと切り捨てることはできない。読みながら、どうしても今の世界を省みてしまう。『一九八四年』は極端に描かれた世界だけれど、このような世界になる萌芽、もしくは程度が違うだけのそのものが、現実世界のあちらこちらに見えてしまうのだ。
この小説の世界では、人々は党から常に監視されている。その監視の目は行動だけではなく思想にまで及ぶ。
歴史の改竄、24 時間体勢の監視、近親者による密告の励行と、自由を拘束するためのあらゆる手段が講じられている世界だ。誰もが党の管理の下、眠るときにすら気を張り詰めて生きている。この小説のなかにあるのは、言論弾圧を超えた思考緊縛の世界だ。
450 ページを超えるこの本では執拗なほど丹念な筆で作品世界の現実が書かれている。これは『一九八四年』の世界の政府が個人に対して行っている統制の周到さそのものでもある。
この本が発表されたのは 1949 年だ。いまから 60 年以上前であり、作者は 35 年後の未来を想像してこの小説を書いたことになる。60 年の時間を経てなおリアリティのある圧政の姿を、心のひだの奥まで恐怖を塗り込めるような筆致で書いたこの小説は、ぜひ読まれるべき一冊だと思う。
決して気分のいい小説ではない。この本に描かれているのは恐怖だ。思考を縛られ、干渉され、服従させられる恐怖だ。しかし、この世界は今、この恐ろしいフィクションの世界に向かおうとしている気してならない。
ちなみに、この『一九八四年』は新訳版で、新庄哲夫さんによる旧訳版が1972年に刊行されている。私は旧訳版は読んでいないので評価はできないが、本書の最後になる「訳者あとがき」で、旧訳版ではミスのため載せられていなかった部分が存在するという話がある。ここを確認するためだけでも、旧訳版のみ読んだという方にはこの新訳版も確認してもらいたい。
余談だが、『閉された言語空間』という、太平洋戦争終結後に米軍により行われた日本に対する検閲を調べたノンフィクションに「日本と日本人の、思考と言語を通じての改造」という一節がある。これはまさに『一九八四年』の世界と同じ状況だ。