初版:1991 年 4 月 海越出版社
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春秋戦国時代の中国に、夏姫という美貌の娘がいた。小国鄭の公女である。『夏姫春秋』は、彼女が巡った悲惨な半生と、その周囲にいた男たち、そして国々の歴史物語だ。
十歳を過ぎた夏姫は自分の寝所に忍んで来た実の兄と姦通する。無理強いされたのではなく、夏姫自身も兄との情愛を喜んでいる。
そんなエピソードから始まったものだから、始め、夏姫とは淫蕩でどこか人間的な感覚から逸脱した女なのだと思っていた。実際、夏姫は悪女として描かれることが多いらしい。しかし、宮城谷さんはそう書いていない。読み進めてみると、彼女は夫に尽くし、子を慈しみ、自分に仕えた臣下のために我が身を投げ出せるような女性なのである。
年を経ても衰えぬ容姿と凄艶さを持つ夏姫は、しかし決して幸せにはなれない。彼女の周囲の男は次々に死んでゆくのである。夏姫は不幸な運命を背負った女性である。夏姫に近づいたものは、その陰の気にあてられて命を落としていく。『夏姫春秋』は、そんな彼女が運命に翻弄されながらも生き続け、やがて光り輝く陽の生を受け取るまでの物語なのだ。
しかし、タイトルにその名前が入っているにもかかわらずこの小説において夏姫の描写は少ない。主に語られるのは戦国時代の国同士の外交や戦、政治などだ。めまぐるしく入れ替わる盟約関係や内争、君主交代などが細かに語られる一方で、夏姫の姿はその合間合間に見え隠れするのみである。だから途中途中、なぜこの本のタイトルに夏姫の名があるのかわからなかった。この小説の主役は果たして夏姫であるのか、疑問だった。
それが、終盤近くになってようやく理由がわかった気がした。夏姫の運命とも言うべきものが、周囲の国々を巻き込むほどのものでもあったのだ。夏姫の半生を真実描き切るには、この時代の中国時代を書かねば済まないほど、夏姫という女性は周囲にその存在を示しながら生きていたのだ。結局のところ、国を書くことで常に夏姫は語られていたのだと思う。
私は中国歴史小説を初めて読んだ。史実に基づいたこの本は、小説というよりも時代解説書のようでもある。しかし決して堅苦しくはない。むしろとても柔軟な文体で、歴史小説というものに身構えていた私は肩透かしを食らった程だ。豊かな語彙が支える文章は雄大な広がりと読みごたえがある。ただ面白くてぐいぐいと読み進めた。
『夏姫春秋』は、春秋時代の数十年を、歴史を追った小説であり、そして夏姫というひとりの女性のための小説でもある。