「日本人と日本文化」を読みおえました。
これは、新書を読もう、と思ったときに書店で手ごろなものを探していて、「司馬遼太郎」という知っている名前が書いていたからというだけで手に取ったもの。もちろんタイトルにもひかれたけれど、ちょっと不純な動機だったと思う。でも、面白かった。とても読みやすい。
書かれたのは1972年で、内容はドナルド・キーンとの対談。対談のテーマはタイトルの通りで、日本人とは、そして日本文化とは。私は知識人ではないので、お二人が当然のように出してくる名前や歴史、文化背景の半分もわからない。けれどそれでも充分に楽しめるほど、奇をてらったりあえて話を小難しくしたりしない、心地よい奥深さがあったように思う。
こんなふうに話をできる相手とめぐりあえたお二人がうらやましいし、話をするだけの深さを自身が持っているということもうらやましい。
さて、ここ数日新書ばかりに精を出していましたが、次はおすすめいただいている「女王の百年密室」を読もうと思います。
新書を読んでいたのは、単純に、そういう波が来ていたからです。その波は「孤独であるためのレッスン」を読んで生まれたものだと思うのですが。
新書の面白さというのは、知識を吸収するというとても即物的なもので、一度はまると癖になります。一冊では満足できなくて、今回のように一気に数冊読んでしまう。
でも結局のところ、新書を読んで得られる楽しさというのは、目の前にぽんと答えを置いてもらったうれしさ、悩んで答えを探さなくていい、苦労のない楽しさでもあると思う。
小説は、作家が書いたことを読んで、その裏側にひっそりと感じられるもの(ストーリーや登場人物に明確に現れているものではなく)をずっと時間をかけて蓄積して、無意識のうちにいつも悩んでいくような、そういう重い楽しさだと思う。だから、たまに休憩が欲しくなって、新書の時期がやってくる。
けれど、これはあえて断言すると、一度小説の重い楽しさを知ったら抜け出せる人はいない。新書の軽い楽しみはあくまで副菜としての意味しか持たない。もちろん主食だけでは胃がもたれてしまうから、とても重要ではあるけれど。
ということで、また小説を楽しむ元気が出てきたので、「女王の百年密室」です。「スカイ・クロラ」シリーズ以外で森さんの小説を読むのは初めて。
これは、新書を読もう、と思ったときに書店で手ごろなものを探していて、「司馬遼太郎」という知っている名前が書いていたからというだけで手に取ったもの。もちろんタイトルにもひかれたけれど、ちょっと不純な動機だったと思う。でも、面白かった。とても読みやすい。
書かれたのは1972年で、内容はドナルド・キーンとの対談。対談のテーマはタイトルの通りで、日本人とは、そして日本文化とは。私は知識人ではないので、お二人が当然のように出してくる名前や歴史、文化背景の半分もわからない。けれどそれでも充分に楽しめるほど、奇をてらったりあえて話を小難しくしたりしない、心地よい奥深さがあったように思う。
こんなふうに話をできる相手とめぐりあえたお二人がうらやましいし、話をするだけの深さを自身が持っているということもうらやましい。
さて、ここ数日新書ばかりに精を出していましたが、次はおすすめいただいている「女王の百年密室」を読もうと思います。
新書を読んでいたのは、単純に、そういう波が来ていたからです。その波は「孤独であるためのレッスン」を読んで生まれたものだと思うのですが。
新書の面白さというのは、知識を吸収するというとても即物的なもので、一度はまると癖になります。一冊では満足できなくて、今回のように一気に数冊読んでしまう。
でも結局のところ、新書を読んで得られる楽しさというのは、目の前にぽんと答えを置いてもらったうれしさ、悩んで答えを探さなくていい、苦労のない楽しさでもあると思う。
小説は、作家が書いたことを読んで、その裏側にひっそりと感じられるもの(ストーリーや登場人物に明確に現れているものではなく)をずっと時間をかけて蓄積して、無意識のうちにいつも悩んでいくような、そういう重い楽しさだと思う。だから、たまに休憩が欲しくなって、新書の時期がやってくる。
けれど、これはあえて断言すると、一度小説の重い楽しさを知ったら抜け出せる人はいない。新書の軽い楽しみはあくまで副菜としての意味しか持たない。もちろん主食だけでは胃がもたれてしまうから、とても重要ではあるけれど。
ということで、また小説を楽しむ元気が出てきたので、「女王の百年密室」です。「スカイ・クロラ」シリーズ以外で森さんの小説を読むのは初めて。