「ラッシュライフ」を読了しました。
伊坂さんは、現在乗りに乗っている作家のひとりに数えていいと思っていて、その分期待して読み始めたのですが、どうにも私には相性が合いませんでした。すべてが、どこかで見た作品の寄せ集めのように感じられてしまいます。
現実にはありえない登場人物、という表現はよく耳にします。登場人物に限らず、ストーリーでも、設定でも。そのとき、「ありえない」の意味はふたつに分けられると信じています。
現実として見かけることはないだろうけれど、どこかにはいるかもしれないと思える「ありえなさ」。小説という虚構と現実のはざまをうまく利用して立ち上がった、厚みのある登場人物。たしかに現実に存在するとは思えないけれど、彼の感情や思考にはきちんと人間くささがあって、読者は共感することも反感を持つこともできる。
もうひとつは、ストーリーに必要なキャラクターとして作者が立ち上げさせた登場人物。その存在はうすっぺらくて、裏側にはなにも無い。裏になにもない人間が、紙切れ一枚のような薄い体積しか持たない人間が、いるだろうか? いるわけがない。そんな「ありえなさ」。
伊坂作品の、少なくとも「ラッシュライフ」の登場人物は、全員が後者の「ありえない」登場人物に当てはまると思う。だから、読んでいて気持ち悪さがつきまとう。登場人物の裏には、彼ら彼女らのそれぞれの思考があるのではない。誰の裏を見てもすべて、作者の意図がひそんでいる。登場人物という等身大のパネルを、作者の意図という支えだけが立たせている。
たとえば「Deep Love アユの物語」とか「世界の中心で、愛を叫ぶ」なんかをきらう人たちのなかには、「人が死ぬ=感動作だから、作者はとりあえず登場人物を死なせればいいと思っている」という意見を言う人がいる。
私もこれに賛成なのだけど、伊坂さんはたぶん、「人の死=感動」という以外にも、方程式のパターンをいくつも持っているのだろう。驚かせるパターン、楽しませるパターン、同情させるパターン、ユーモアを感じさせるパターン。器用な人なのだと思う。けれど、器用さで厚みは生み出せない。だから、薄っぺらい寄せ集めに感じてしまう。読者の感覚をコントロールするためのパターンの集合体。私はそれを、小説とは呼びたくない。
映画でも音楽でも、技巧を凝らしただけのものは好きではありません。必要なのは読者や観客の裏をかく「騙し」ではなく、作者が自分の創作物に全身全霊で対峙することだと信じているからです。そして、その結果が陳腐な演出でも目新しくない音の積み重ねでも、そこから生まれてるくるどうやっても呼び表せない素晴らしいものが、創作物に触れるよろこびだと思っているからです。
作者の技巧を見せてもらうために、本を読もうとは思いません。
めずらしく、酷評になりました。読んでいて不快になった方もいらっしゃるかもしれませんが、自分の考えていることをそのまま書きました。
伊坂さんは、現在乗りに乗っている作家のひとりに数えていいと思っていて、その分期待して読み始めたのですが、どうにも私には相性が合いませんでした。すべてが、どこかで見た作品の寄せ集めのように感じられてしまいます。
現実にはありえない登場人物、という表現はよく耳にします。登場人物に限らず、ストーリーでも、設定でも。そのとき、「ありえない」の意味はふたつに分けられると信じています。
現実として見かけることはないだろうけれど、どこかにはいるかもしれないと思える「ありえなさ」。小説という虚構と現実のはざまをうまく利用して立ち上がった、厚みのある登場人物。たしかに現実に存在するとは思えないけれど、彼の感情や思考にはきちんと人間くささがあって、読者は共感することも反感を持つこともできる。
もうひとつは、ストーリーに必要なキャラクターとして作者が立ち上げさせた登場人物。その存在はうすっぺらくて、裏側にはなにも無い。裏になにもない人間が、紙切れ一枚のような薄い体積しか持たない人間が、いるだろうか? いるわけがない。そんな「ありえなさ」。
伊坂作品の、少なくとも「ラッシュライフ」の登場人物は、全員が後者の「ありえない」登場人物に当てはまると思う。だから、読んでいて気持ち悪さがつきまとう。登場人物の裏には、彼ら彼女らのそれぞれの思考があるのではない。誰の裏を見てもすべて、作者の意図がひそんでいる。登場人物という等身大のパネルを、作者の意図という支えだけが立たせている。
たとえば「Deep Love アユの物語」とか「世界の中心で、愛を叫ぶ」なんかをきらう人たちのなかには、「人が死ぬ=感動作だから、作者はとりあえず登場人物を死なせればいいと思っている」という意見を言う人がいる。
私もこれに賛成なのだけど、伊坂さんはたぶん、「人の死=感動」という以外にも、方程式のパターンをいくつも持っているのだろう。驚かせるパターン、楽しませるパターン、同情させるパターン、ユーモアを感じさせるパターン。器用な人なのだと思う。けれど、器用さで厚みは生み出せない。だから、薄っぺらい寄せ集めに感じてしまう。読者の感覚をコントロールするためのパターンの集合体。私はそれを、小説とは呼びたくない。
映画でも音楽でも、技巧を凝らしただけのものは好きではありません。必要なのは読者や観客の裏をかく「騙し」ではなく、作者が自分の創作物に全身全霊で対峙することだと信じているからです。そして、その結果が陳腐な演出でも目新しくない音の積み重ねでも、そこから生まれてるくるどうやっても呼び表せない素晴らしいものが、創作物に触れるよろこびだと思っているからです。
作者の技巧を見せてもらうために、本を読もうとは思いません。
めずらしく、酷評になりました。読んでいて不快になった方もいらっしゃるかもしれませんが、自分の考えていることをそのまま書きました。