「対象喪失」を読了しました。
第一章から第六章、そして終章で構成される。そのうち第一章から第五章までは主にフロイトの学説に基づいて、愛情・依存の対象を失ったときの人の気持ちの流れを丁寧に解説している。対象喪失とはどのような流れで起こり、それが妨げられるとどのような害を本人にもたらすかという話に終始する。このあたりは対象喪失体験のある人、あるいは今その最中にある人にとってはうなずける内容であり、自分の心を整理してもらえるという意味で救いにもなる部分だ。
ただ、この本の主題は第六章にあると思う。第六章のタイトルは「悲哀排除症候群」。現代社会においては対象喪失体験を持つことができない人々があふれていると著者は指摘する。
失っても悲しくない程度の人間関係しか持たず初めから悲しみを回避しようとする。心から嘆き苦しんでいる人には「そんなことでは現代を生きて行くことはできない」と突き放し、悲しんでいる本人もまた対象喪失の悲哀が否定される世界ではきちんと自分の悲哀を消化していくことができない。それ以前に、自分が喪失を悲しんでいることに気づくことすらできない人々もいる。
その原因を著者はいくつか挙げているけれど、私の思うもっとも大きな理由は死や不幸、悲しむことを迷惑なこと、わずらわしいこととして排除したがる心理だ。なければない方がいいと思っている。けれど、そうではないと著者は言う。悲しみは悪ではない。悲しみを悲しめることは人として重要な能力だ。その通りだと思う。
私事だけれど、もう何年も前にずいぶんと傷ついて数年間その悲しみを引きずっていたことがある。逃げようにも逃げ場がなくて思い出しては泣きだしてをくり返したけれど、その結果ようやく気づけたことは、悲しめるのはそれだけ失いたくない大切なものがあったからだということだった。それはとても幸せなことなのだと、しみじみと気がついた。
悲しまなくていい代わりに大切なものがない、後で悲しむことを恐れて大切なものを全身全霊で大切にすることができない、マイナスもプラスもないゼロだけの日々を幸福だとは思わなくなった。この考えをつくるきっかけとなったその経験が苦しい思いであったことに変わりはないけれど、そこから多くのものを受け取れたことで、せめてものつぐないができたかなと思っている。
第一章から第六章、そして終章で構成される。そのうち第一章から第五章までは主にフロイトの学説に基づいて、愛情・依存の対象を失ったときの人の気持ちの流れを丁寧に解説している。対象喪失とはどのような流れで起こり、それが妨げられるとどのような害を本人にもたらすかという話に終始する。このあたりは対象喪失体験のある人、あるいは今その最中にある人にとってはうなずける内容であり、自分の心を整理してもらえるという意味で救いにもなる部分だ。
ただ、この本の主題は第六章にあると思う。第六章のタイトルは「悲哀排除症候群」。現代社会においては対象喪失体験を持つことができない人々があふれていると著者は指摘する。
失っても悲しくない程度の人間関係しか持たず初めから悲しみを回避しようとする。心から嘆き苦しんでいる人には「そんなことでは現代を生きて行くことはできない」と突き放し、悲しんでいる本人もまた対象喪失の悲哀が否定される世界ではきちんと自分の悲哀を消化していくことができない。それ以前に、自分が喪失を悲しんでいることに気づくことすらできない人々もいる。
その原因を著者はいくつか挙げているけれど、私の思うもっとも大きな理由は死や不幸、悲しむことを迷惑なこと、わずらわしいこととして排除したがる心理だ。なければない方がいいと思っている。けれど、そうではないと著者は言う。悲しみは悪ではない。悲しみを悲しめることは人として重要な能力だ。その通りだと思う。
私事だけれど、もう何年も前にずいぶんと傷ついて数年間その悲しみを引きずっていたことがある。逃げようにも逃げ場がなくて思い出しては泣きだしてをくり返したけれど、その結果ようやく気づけたことは、悲しめるのはそれだけ失いたくない大切なものがあったからだということだった。それはとても幸せなことなのだと、しみじみと気がついた。
悲しまなくていい代わりに大切なものがない、後で悲しむことを恐れて大切なものを全身全霊で大切にすることができない、マイナスもプラスもないゼロだけの日々を幸福だとは思わなくなった。この考えをつくるきっかけとなったその経験が苦しい思いであったことに変わりはないけれど、そこから多くのものを受け取れたことで、せめてものつぐないができたかなと思っている。