メモ
2008.10.23
 結局、一昨日メモを書き終えたあとに夜ふけすぎまでかけて「弱法師」を読了してしまいました。味わう余裕もなく、与えられる甘い水をただひたすらにむさぼり飲むような読書でした。
 可穂さんの書く文章は推敲が練りに練られて洗練され、するすると身のうちに入ってきます。この読みやすさは一語一語にまでなされた可穂さんの心配りの結果で、読みやすいだけで中身のない小説とはちがいます。それは、読了後にいかに「弱法師」という小説が自分の内側を占めているかではっきりとわかります。

 可穂さんの描く愛はいつでも捨て身の愛で、相手とともにこの世界からこぼれ落ちていってもかまわないという愛です。健全さや正しさに価値基準を置くなら、非難の嵐にさらされるような愛。あるいは我が身を一切ふりかえらないその様に、同情されるような愛でもあるかもしれません。だからいつでも痛々しくて、私は読んでいる間じゅう、泣くことをおさえられません。涙というかたちにはならなくても。

 それでも、(力強く「それでも」と反駁せずにはいられない思いに駆られるほどに)作中に登場する人々は決して不幸ではないし、私は読後に必ず希望や光りを感じられるのです。その希望は救いがあるという希望ではなく、それでも愛しているや、それでも愛してよかったというような、絶望や苦しみをすべて抱えた希望です。
 どちらがより人にやさしい希望なのか、どちらが健やかでまっとうな希望なのか、それは議論の余地もなく救いがあるという希望なのだと思います。ただ、そこからはこぼれ落ちてしまった者、そんな希望にはまぶしすぎて手をのばせないという人々に「それでも」といってさしだされるのが、可穂さんの書く希望なような気がするのです。

 相手も自分も殺してしまうような嵐のような愛を知らずに生きてゆくことは、決して不幸なことではありません。けれど同時に、そんな愛を知っている可穂さんのえがく人々は皆が皆、これ以上はないというほどに満ち足りているように見えるのです。

 怪盗クイーンシリーズは前後編がそろうのを待っていたのですが、結局後編が発売されてから五ヶ月も経ってからの読了になりました。