おすすめいただいていた『夜は短し歩けよ乙女』と『プシュケの涙』を読了しました。
まずは、『夜は短し歩けよ乙女』の感想から。
*
大学のクラブの後輩に恋する “先輩” と、 “先輩” の意中の人である黒髪の “乙女”。それぞれの視点が交互に語る、京都を舞台にした恋物語。
春の夜歩き、夏の古本市、秋の学園祭に冬の風邪の大流行。四季のさまざまな物語を通して、ふたりの距離は少しずつせばまっていく。
森見さんの物語はいつでも軽妙で読みやすい。底抜けに面白くて、影や痛みといったものが一切ない。恋の切なさすら、自嘲を力いっぱい込めた笑いに昇華されている。
その上、「どうやったらそんな表現が思いつくんだ」と、感心を通り越して妙な怒りが湧き出てきそうな奇抜な表現が次から次へと繰り出される。常人にはとうてい予想できないような展開が続き、登場人物はひとりの例外もなくひと癖ふた癖では済まない変人ばかり。
それなのに、こんなにもどこにも “普通” の要素なんてないのに、読後感は王道の青春恋愛小説を読んだときのように懐かしくあまずっぱく、さわやかだ。この魔法はどこから来るのだろう。いつ読んでも “森見登美彦ワールド” は唯一無二だと思う。
愉快でおかしくて面白くて、たくさんのきらきらしたイメージと描写にあふれている物語だ。そして、その中心には恋心がしっかとかまえている。
“先輩” は延々と “乙女” の外堀を埋め続ける。偶然を装いながら “乙女” の後ろを駆け回る。しかも、どれだけ外堀を埋めても「いや、まだ時期尚早だ」と言って “乙女” 本人のところへは向かわない。はがゆい、じれったいというよりも、ただの阿呆だとあきれてしまうほどに “先輩” の手法は迂遠に迂回を重ねていく。
“乙女” も “乙女” で、自分へ向けられた恋慕には一切気付かず “先輩” の演出する不自然な偶然の数々も意に留めず、自分が面白そうだと思う新世界へずんずん進んでいく。
そんな食い違い続けるふたりが、それでも少しずつ距離を縮めていく。この姿を恋物語の王道と言わないなら何を王道と呼ぶのかというほど、その様子は気恥ずかしさに満ちている。
欲を言うなら、もうちょっとだけ “乙女” から見た “先輩” の姿を読んでみたかった。“乙女” が “先輩” を気にかけるようになる過程がもっと見えたら、ますます気恥ずかしいシーンが増えそうだけれど。
*
そして、『プシュケの涙』。
夏休みの学校で、ひとりの少女が自殺した。榎戸川は補習授業の最中に、クラスメイトであるその少女が窓の外を落下していくのを目撃した。
誰もが口をつぐみ静かに少女の死を受け流そうとするなか、“変人” と噂される由良は榎戸川を巻き込み彼女の死の真相を追い出した。
少女はなぜ、自殺したのか?
自殺者の吉野彼方、目撃者の榎戸川、真相を追う由良。
読み出したとき、私はこれは榎戸川と由良の物語だと思っていた。吉野はふたりをつなぐキーパーソンではあっても主人公ではないのだと。
でも違っていたみたいだ。帯には、「これは切なく哀しい、不恰好な恋の物語」とある。その通りだ。これは、由良と吉野彼方、このふたりの物語だ。
ストーリー自体はきらいじゃない。ラノベらしいゆるさはあるけれど、人物造形もそれぞれに魅力的だ。共感できるほど私はもう幼くないけど、理解はできる。榎戸川の愚かさも、由良の不器用さと必死さも、吉野彼方の強さと弱さも。
けれど、どうしても、どうにもならない救いのなさがつらかった。
『プシュケの涙』は二段構え物語だ。第一幕は、第二幕のための大きな序曲であるとも言える。ニ幕目の物語が優しければ優しいほど、一幕目がつらくなる。物語が進めば進むほど “吉野彼方の死” という動かない事実が重くのしかかってくる。
最初に登場人物の死が約束された物語というと、私のなかでは『イントゥ・ザ・ワイルド』という映画が最初にくる。大好きな映画だ。
この映画も、語られる主人公の日々が輝かしくすばらしいものであればあるほどラストの主人公の死がつらくなる。けれど、それでも絶望だけで終わらないのは主人公が自分の死に際して希望を見つけていたという描写があるからだ。
吉野彼方と榎戸川については、ほんのかすかなものではあるけれど希望を感じられる。吉野は第ニ幕で語られているように出会いによって救われていただろう。榎戸川はずっと荷を背負っていくだろうけれど、その覚悟を決めたからこそ第一幕の最後であのモノローグになるのだろう。
では由良は?
私には彼に関する救いがどうしても見えない。だから『プシュケの涙』がつらい本になっている。言葉が悪いのはわかっているけれど、私にとっては死者よりも今生きている人間が大切だ。吉野よりも由良を中心に考えてしまう。誰よりも救われて欲しいのは由良なのに、彼には救いがもたらされない。
わかっている。これは私の弱さだ。救いがないと耐えられないという弱さだ。
由良はそういう弱さを持たない。トラウマをいやすことではなく受け入れることを知っている。救いがないと嘆く私をほったらかしに、由良は「そんなものはいらない」と言いながら何度でも思い出し何度でも傷ついて、そうやって前へ進んでいくのだろう。榎戸川もまた、荷を降ろそうとはせずその重さを感じたまま歩いていくのだろう。
高校時代の思い出と言うにはあまりに重い。けれどふたりとも、それを抱えたまま、これからの数十年を生きるんだろう。
*
おすすめ、ありがとうございました。
今読んでいる『神の慰めの書』ですが、先に福音書を読んでから読むことにしようかと考えています。
小説に関しては、順番が前後しますが『塩の街』を読もうと思っています。ラノベつながりでというのもあるんですが、小川洋子さんの小説は読む前に気構えが必要なのです。申し訳ないですが、どうかご了承くださいませ。
ところで、今は以前おすすめいただいた『雨柳堂夢咄』を再読してます。その前は緑川ゆきさんのコミックを再読してました。沙々雪でおすすめいただくコミックは当たりばかりでうれしいです。
まずは、『夜は短し歩けよ乙女』の感想から。
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大学のクラブの後輩に恋する “先輩” と、 “先輩” の意中の人である黒髪の “乙女”。それぞれの視点が交互に語る、京都を舞台にした恋物語。
春の夜歩き、夏の古本市、秋の学園祭に冬の風邪の大流行。四季のさまざまな物語を通して、ふたりの距離は少しずつせばまっていく。
森見さんの物語はいつでも軽妙で読みやすい。底抜けに面白くて、影や痛みといったものが一切ない。恋の切なさすら、自嘲を力いっぱい込めた笑いに昇華されている。
その上、「どうやったらそんな表現が思いつくんだ」と、感心を通り越して妙な怒りが湧き出てきそうな奇抜な表現が次から次へと繰り出される。常人にはとうてい予想できないような展開が続き、登場人物はひとりの例外もなくひと癖ふた癖では済まない変人ばかり。
それなのに、こんなにもどこにも “普通” の要素なんてないのに、読後感は王道の青春恋愛小説を読んだときのように懐かしくあまずっぱく、さわやかだ。この魔法はどこから来るのだろう。いつ読んでも “森見登美彦ワールド” は唯一無二だと思う。
愉快でおかしくて面白くて、たくさんのきらきらしたイメージと描写にあふれている物語だ。そして、その中心には恋心がしっかとかまえている。
“先輩” は延々と “乙女” の外堀を埋め続ける。偶然を装いながら “乙女” の後ろを駆け回る。しかも、どれだけ外堀を埋めても「いや、まだ時期尚早だ」と言って “乙女” 本人のところへは向かわない。はがゆい、じれったいというよりも、ただの阿呆だとあきれてしまうほどに “先輩” の手法は迂遠に迂回を重ねていく。
“乙女” も “乙女” で、自分へ向けられた恋慕には一切気付かず “先輩” の演出する不自然な偶然の数々も意に留めず、自分が面白そうだと思う新世界へずんずん進んでいく。
そんな食い違い続けるふたりが、それでも少しずつ距離を縮めていく。この姿を恋物語の王道と言わないなら何を王道と呼ぶのかというほど、その様子は気恥ずかしさに満ちている。
欲を言うなら、もうちょっとだけ “乙女” から見た “先輩” の姿を読んでみたかった。“乙女” が “先輩” を気にかけるようになる過程がもっと見えたら、ますます気恥ずかしいシーンが増えそうだけれど。
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そして、『プシュケの涙』。
夏休みの学校で、ひとりの少女が自殺した。榎戸川は補習授業の最中に、クラスメイトであるその少女が窓の外を落下していくのを目撃した。
誰もが口をつぐみ静かに少女の死を受け流そうとするなか、“変人” と噂される由良は榎戸川を巻き込み彼女の死の真相を追い出した。
少女はなぜ、自殺したのか?
自殺者の吉野彼方、目撃者の榎戸川、真相を追う由良。
読み出したとき、私はこれは榎戸川と由良の物語だと思っていた。吉野はふたりをつなぐキーパーソンではあっても主人公ではないのだと。
でも違っていたみたいだ。帯には、「これは切なく哀しい、不恰好な恋の物語」とある。その通りだ。これは、由良と吉野彼方、このふたりの物語だ。
ストーリー自体はきらいじゃない。ラノベらしいゆるさはあるけれど、人物造形もそれぞれに魅力的だ。共感できるほど私はもう幼くないけど、理解はできる。榎戸川の愚かさも、由良の不器用さと必死さも、吉野彼方の強さと弱さも。
けれど、どうしても、どうにもならない救いのなさがつらかった。
『プシュケの涙』は二段構え物語だ。第一幕は、第二幕のための大きな序曲であるとも言える。ニ幕目の物語が優しければ優しいほど、一幕目がつらくなる。物語が進めば進むほど “吉野彼方の死” という動かない事実が重くのしかかってくる。
最初に登場人物の死が約束された物語というと、私のなかでは『イントゥ・ザ・ワイルド』という映画が最初にくる。大好きな映画だ。
この映画も、語られる主人公の日々が輝かしくすばらしいものであればあるほどラストの主人公の死がつらくなる。けれど、それでも絶望だけで終わらないのは主人公が自分の死に際して希望を見つけていたという描写があるからだ。
吉野彼方と榎戸川については、ほんのかすかなものではあるけれど希望を感じられる。吉野は第ニ幕で語られているように出会いによって救われていただろう。榎戸川はずっと荷を背負っていくだろうけれど、その覚悟を決めたからこそ第一幕の最後であのモノローグになるのだろう。
では由良は?
私には彼に関する救いがどうしても見えない。だから『プシュケの涙』がつらい本になっている。言葉が悪いのはわかっているけれど、私にとっては死者よりも今生きている人間が大切だ。吉野よりも由良を中心に考えてしまう。誰よりも救われて欲しいのは由良なのに、彼には救いがもたらされない。
わかっている。これは私の弱さだ。救いがないと耐えられないという弱さだ。
由良はそういう弱さを持たない。トラウマをいやすことではなく受け入れることを知っている。救いがないと嘆く私をほったらかしに、由良は「そんなものはいらない」と言いながら何度でも思い出し何度でも傷ついて、そうやって前へ進んでいくのだろう。榎戸川もまた、荷を降ろそうとはせずその重さを感じたまま歩いていくのだろう。
高校時代の思い出と言うにはあまりに重い。けれどふたりとも、それを抱えたまま、これからの数十年を生きるんだろう。
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おすすめ、ありがとうございました。
今読んでいる『神の慰めの書』ですが、先に福音書を読んでから読むことにしようかと考えています。
小説に関しては、順番が前後しますが『塩の街』を読もうと思っています。ラノベつながりでというのもあるんですが、小川洋子さんの小説は読む前に気構えが必要なのです。申し訳ないですが、どうかご了承くださいませ。
ところで、今は以前おすすめいただいた『雨柳堂夢咄』を再読してます。その前は緑川ゆきさんのコミックを再読してました。沙々雪でおすすめいただくコミックは当たりばかりでうれしいです。