初版:1954 年 4 月 新潮社
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結核にかかりサナトリウムに入った「僕」が魅了された人物、汐見茂思。汐見は常に飄々として、病状が悪化しても「僕の精神が生きている限りは、僕という人格は僕のものだ」と言って動じない強靭な理知を備えている。
その汐見が己の青春を捧げたふたつの愛が、彼自身による小説形式の手記によって語られる。
汐見はその生涯においてふたりの人間を愛したが、しかし彼の言う「愛」はあまりに観念的に過ぎる。と、そう言うと身も蓋もないかもしれないけれど、少なくとも私から見れば、本当にそうとしか言いようがない。
汐見は自らが愛したふたりを「純潔な魂の持ち主」と呼んだ。それゆえにこそ汐見は彼らを愛したのだ。しかし彼らの方は、「自分は平凡な人間に過ぎないのだ」と汐見に訴える。汐見のなかには観念が作り上げた確固たる理想の偶像が存在していて、彼の愛は、その偶像と近いものを感じさせる人間に理想をだぶらせ見ているに過ぎない。汐見の恋は、人間を使った人形遊びだ。
私は、汐見の現実ではなく夢の世界に生きる生き方、孤独を選び、その孤独によってすべてを満たす十全な愛を探索する愛し方を否定するのでは決してない。むしろ、私はこの本を読み進めながら、汐見が作中で語る彼の哲学のいちいちに頷いていた。私自身、自分は現実よりも夢の世界に片寄って生きている人間だと思っている。
しかし同時に、汐見の求めた完璧な愛など観念上にしか存在し得ない(生身の人間には求め得ない)こと、汐見の哲学は現実には適用され得ないことも、私は知ってしまっている。
その点汐見は、よく言えばより純粋であり、強固であった。彼は夢の世界から現実に立ち返って生身の人間を愛することよりも、自身の精神内で完結する純潔な孤独を選ぶことを最後まで貫いた。
汐見はふたりとも自分を愛してはくれなかったと述懐するけれど、彼らは自分に理想像を重ね見るだけで自分自身を愛してはくれない汐見を、それでもひとりの人間として確かに愛していた。本当に愛を捧げなかったのは、むしろ理想像を覆い被せて彼ら自身を見なかった汐見の方なのだ。
汐見は愚かであった。その愚かさのために、自分に向けられた愛を気づかず、自らの観念しかその目に映さず、愛してくれたひとに生涯治らない傷を負わせた。あまりに身勝手だと言えるかもしれない。
しかし、この救いがたい愚かさを、私は責める気にはどうしてもできない。
汐見は多くの人々が当たり前にするように現実を現実としてとらえることはできなかったけれど、自分のなかの思索に、苦しみながらも真摯に立ち向かい続けたひとでもあるのだ。
小説を書く人間である汐見は、常に自らを芸術家たらんとした。芸術家というのは、もしかしたら皆汐見のように、現実よりも夢の世界に生き、現実を夢のように装飾しようとする人種なのかもしれない。
現実に生きる彼らと、夢の世界からしか現実を見ない汐見。この食い違いが、汐見がどこまで行っても夢の世界にしか生きなかった(あるいは生きられなかった)ことが、この小説に描かれた悲哀の源だ。