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『グッド・バイ』 太宰 治
グッド・バイ
>> Amazon.co.jp(新潮文庫)

 太宰後期の作品が、短編や戯曲、戦中や終戦直後の生活を綴った記録と多彩に 16 編収められている。表題作の「グッド・バイ」は未完のままとなった絶筆だ。

 太宰のユーモア、世界を見つめる視点の悲しげな様子、人間という存在に対する慈愛、その慈愛の源泉となっている自らへの落胆。太宰という人間はひとりでありながら、実に多くの面を作品に持たせている。いまだ多いだろう「太宰=人間失格」と思っているひとには、本当に『お伽草紙』や『女生徒』を読んでみてほしい。

 そんな太宰の作品が 16 編も並んだのだから、もちろんその作風は幅広い。戦争の苦味がじわりと口中に広がる作品から初期太宰のような軽妙な語り口の作品まで揃っている。そのなかで、「フォスフォレッセンス」という透明な一編が私をいっとう強く捕らえた。

 文庫本にして 9 ページのこの掌編の語り手は、この世の現実と同じように、夢のなかでも成長し、育ちながら生きてきたという。現実を生き、眠っている時には夢の現実を生きている「私」には、現実と夢は「自分の意識が見ているもの」という一点に置いて等しく差異のない世界だ。
 彼は現実で、夢で、彼の人生を生き、やがて現実と夢は彼の人生の上で交錯する。

 たった数ページを読むあいだ、脳は静謐に支配される。読み終わった時に、ふと涙が流れている気がする。それはこの短編の美しさに対するもので、現実の涙とは違う夢の涙で、夢の涙は塩辛さもなく濁りもなく、現実にはない透き通った水滴だ。これほど美しい小説を私は読んだことがなかった。
 この先、これ以上に惹き付けられる太宰の作品には出会わないのではないかという予感がしている。
2011.04.03