この小説が世に出たのは1998年で、出版時にもう目に止まっていたのだったかその後しばらくしてだったのだったかどうにも確信が持てない。けれど、文庫化を知った時に「読もう」と思った記憶がうっすらとあるから、少なくとも2002年の文庫出版よりは前に知っていたのだと思う。この文庫化に関する記憶も危ういけれど。
さて、それからもっとも少なく見積もって十年が経っている。積読はもう私の読書生活の根と化しているけれど、それでもひどい。四年や五年のものならまだ数冊あるけれど、十年となるとこの一冊きりだ。
そこまで寝かせた感想は、「寝かせすぎたなあ」。この本の冒頭を初めて読んだ時、私は「基督」という漢字を「キリスト」と読めなかった。そういう頃にこの麗々しい文体にぶち当たったのだから、そりゃあひるんだ。ひるんで、「いつか休日丸一日をあてて読了しよう」と思った。世界に浸かり切らないと読み通せないと思ったのだ。今の私でいうと、源氏物語を原文で読むのに挑もうとする感覚にたぶん近い。
ひるんだ気持ちばかりが大きくなって、同時に一ページ目のほんの数行からうかがい知った雰囲気から期待もどんどん膨らんでいって、本棚のなかで際限なく「いつか読む本」=「今はまだ読まない本」になっていった。
それ自体は悪いことじゃない。どんな本にも読み時はあるし、その読み時がまだ来ていないならそれはきちんと待つべきだ。
でもとにかく、今回については待ちすぎた。むしろ、あの「基督」を「キリスト」と読めない時に、寸暇を惜しんで日々少しずつでもさっさと読んでおいてしまえばよかった。そうした方がたぶんずっと良かった。今の私が読んでは、古い文語体を模そうとするその文の運びが見えてしまう。内容がどうこう以前に、この文体にぽかんと口を開けられるうちに、読んでおくべきだったのだ。この文体に酔えなければ、この小説は楽しまれ方を失ってしまう。
さて、それからもっとも少なく見積もって十年が経っている。積読はもう私の読書生活の根と化しているけれど、それでもひどい。四年や五年のものならまだ数冊あるけれど、十年となるとこの一冊きりだ。
そこまで寝かせた感想は、「寝かせすぎたなあ」。この本の冒頭を初めて読んだ時、私は「基督」という漢字を「キリスト」と読めなかった。そういう頃にこの麗々しい文体にぶち当たったのだから、そりゃあひるんだ。ひるんで、「いつか休日丸一日をあてて読了しよう」と思った。世界に浸かり切らないと読み通せないと思ったのだ。今の私でいうと、源氏物語を原文で読むのに挑もうとする感覚にたぶん近い。
ひるんだ気持ちばかりが大きくなって、同時に一ページ目のほんの数行からうかがい知った雰囲気から期待もどんどん膨らんでいって、本棚のなかで際限なく「いつか読む本」=「今はまだ読まない本」になっていった。
それ自体は悪いことじゃない。どんな本にも読み時はあるし、その読み時がまだ来ていないならそれはきちんと待つべきだ。
でもとにかく、今回については待ちすぎた。むしろ、あの「基督」を「キリスト」と読めない時に、寸暇を惜しんで日々少しずつでもさっさと読んでおいてしまえばよかった。そうした方がたぶんずっと良かった。今の私が読んでは、古い文語体を模そうとするその文の運びが見えてしまう。内容がどうこう以前に、この文体にぽかんと口を開けられるうちに、読んでおくべきだったのだ。この文体に酔えなければ、この小説は楽しまれ方を失ってしまう。