事故で聴覚と恋人を一度に失った植田さんは、画材と着替えだけを持って湖のある高原へと引っ越した。冬には厚く凍りつく湖の側で小さな暮らしを営んでいた植田さんは、ある日空き家だった隣家に、湖の「向こう側」の街からやってきた林イルマと林メリという母子の隣人を迎えることになる。
叙情性あふれる描写と詩的な情景に満ち、植田さんをとりまく人々はあたたかくて、まるでこの世界とは違うどこかをそっとのぞき見ている気がしてくる。前に読んだ『プラネタリウムのふたご』もそうだったから、きっといしいしんじさんという作家はそんな風に物語を描く作家なんだろうと思う。
ここではない、ここよりも素敵で、人々が優しく、あたたかで美しい世界。素晴らしくて、けれどそのぶん幻のようで、こんな風に生きるのはとてもこの現実に住む自分にはできないと思わず諦めてしまう、夢のなかのような世界。
でも、違う。本当はいしいさんは、ありのままの現実を見ることにとても長けた作家だと思う。上澄みのように純粋さ、優しさ、美しさをすくい上げるけれど、この物語の世界にも憎しみや醜悪さ、いがみあい、無神経さ、何もかもが存在している。あわあわと、決して強調せず書かれているけれど、苦しみや悲しみを生むものを排除した幻想郷を書いているのではない事実はゆるがない。いしいさんは紛れもなく、この私たちが生きている現実を舞台に物語を描いている。
誰も善意だけではないし、悪意だけでもない。ただ、私たちは他人のなかの悪意をしばしば自分のなかで乱反射させて、実際よりもずっと悪く世界を受け止めてしまう。
そんなこの世界を、ありのままに描いている。例えば、湖のこちら側と「向こう側」の街の間には確執がある。「向こう側」の住人たちにいい感情を抱いていない隣人たちの物言いに、土地のものでない植田さんがあいまいにうなずく場面で、それは見えてくる。普段は心やすく付き合いのある隣人たちの「向こう側」の人々に対するいいぐさは、植田さんには同意しかねる意見なのだ。
この物語の世界に生きている人たちは誰も本当は特別優しくはない。自然も、美しいけれど、同時に音もないなだれで人間を簡単に飲み込んだりする。集落の顔なじみは耳がひどく遠い植田さんの間近で植田さんのうわさ話をしたりするし、そもそもイマリ、メリ母子は湖の「向こう側」の街でひどい暴力にさらされて避難のため植田さんの隣家に越してきたのだ。
これはたぶん、人の強さのお話なんじゃないだろうか。ひどい不遇に遭った後も自然の美しさに目を開くこと、野鳥の声に耳をすますこと、自分が大切だと思う人のために自分自身を信じて雪山を探し歩くこと。『絵描きの植田さん』は、それを成し遂げる強さの物語だと思うのだ。自分が自然のなかで、そして人と人の間で生きているといういつでも変わらない真実を忘れないことが、その強さを支えてくれる。
いしいしんじさんの文と植田真さんの絵が織りなす、小さな集落でつむがれるつながりの物語。
装幀やページに組み方、そして途中何枚も挿入される植田真さんの絵が心地よくて、文庫で買ったけれどもハードカバーにしておけばよかったと読み始めてすぐに思った。短い文章のなかにぎゅっとさまざまなものが凝縮された、とても居心地のいい、完璧に近い珠玉の一冊。
叙情性あふれる描写と詩的な情景に満ち、植田さんをとりまく人々はあたたかくて、まるでこの世界とは違うどこかをそっとのぞき見ている気がしてくる。前に読んだ『プラネタリウムのふたご』もそうだったから、きっといしいしんじさんという作家はそんな風に物語を描く作家なんだろうと思う。
ここではない、ここよりも素敵で、人々が優しく、あたたかで美しい世界。素晴らしくて、けれどそのぶん幻のようで、こんな風に生きるのはとてもこの現実に住む自分にはできないと思わず諦めてしまう、夢のなかのような世界。
でも、違う。本当はいしいさんは、ありのままの現実を見ることにとても長けた作家だと思う。上澄みのように純粋さ、優しさ、美しさをすくい上げるけれど、この物語の世界にも憎しみや醜悪さ、いがみあい、無神経さ、何もかもが存在している。あわあわと、決して強調せず書かれているけれど、苦しみや悲しみを生むものを排除した幻想郷を書いているのではない事実はゆるがない。いしいさんは紛れもなく、この私たちが生きている現実を舞台に物語を描いている。
誰も善意だけではないし、悪意だけでもない。ただ、私たちは他人のなかの悪意をしばしば自分のなかで乱反射させて、実際よりもずっと悪く世界を受け止めてしまう。
そんなこの世界を、ありのままに描いている。例えば、湖のこちら側と「向こう側」の街の間には確執がある。「向こう側」の住人たちにいい感情を抱いていない隣人たちの物言いに、土地のものでない植田さんがあいまいにうなずく場面で、それは見えてくる。普段は心やすく付き合いのある隣人たちの「向こう側」の人々に対するいいぐさは、植田さんには同意しかねる意見なのだ。
この物語の世界に生きている人たちは誰も本当は特別優しくはない。自然も、美しいけれど、同時に音もないなだれで人間を簡単に飲み込んだりする。集落の顔なじみは耳がひどく遠い植田さんの間近で植田さんのうわさ話をしたりするし、そもそもイマリ、メリ母子は湖の「向こう側」の街でひどい暴力にさらされて避難のため植田さんの隣家に越してきたのだ。
これはたぶん、人の強さのお話なんじゃないだろうか。ひどい不遇に遭った後も自然の美しさに目を開くこと、野鳥の声に耳をすますこと、自分が大切だと思う人のために自分自身を信じて雪山を探し歩くこと。『絵描きの植田さん』は、それを成し遂げる強さの物語だと思うのだ。自分が自然のなかで、そして人と人の間で生きているといういつでも変わらない真実を忘れないことが、その強さを支えてくれる。
いしいしんじさんの文と植田真さんの絵が織りなす、小さな集落でつむがれるつながりの物語。
装幀やページに組み方、そして途中何枚も挿入される植田真さんの絵が心地よくて、文庫で買ったけれどもハードカバーにしておけばよかったと読み始めてすぐに思った。短い文章のなかにぎゅっとさまざまなものが凝縮された、とても居心地のいい、完璧に近い珠玉の一冊。
初版:2003 年 12 月 ポプラ社
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