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『ガタカ』
 近未来であるガタカの作品世界では人々は遺伝子操作のもと生まれた「適正者」と自然出産で産まれた「不適正者」に分けられる。人は生まれて数秒後に各種疾病の発症率や推定寿命を測定され、特定の職業には「適正者」しか就くことができない。
 自然出産を選んだ両親の元に産まれたヴィンセントは身体能力が低く、心臓に疾患を抱えていた。ヴィンセント出生の時までは遺伝子操作に抵抗感を抱いていた両親だが、ヴィンセントの弟を産む時には遺伝子デザイナーの元を訪れ「適正者」の第二子を持った。
 この時夫婦は、若いうちに死ぬだろうヴィンセントのことを考えていたはずだ。そして「長く側にいてくれる『正式な』子供を」と考えただろう。それはヴィンセントへの愛の多寡ではない。ただ、「ヴィンセントは長く生きられない」という純然たる事実へ対するまっとうな選択だ。
 しかし、ヴィンセントにとって両親のこの選択は自分を打ちのめす意味しかない。あらゆる点で自分を凌ぐ弟と共に育ちながら、ヴィンセントは自分の価値を問い続けたはずだ。弟に劣り、弟より早く死に、未来を夢見る権利を産まれた時から剥奪されていた自分の生の意味を問い続けてヴィンセントは育ったはずだ。

 私がヴィンセントと同じ立ち場にいたら、と考える。私は死ぬまでただ生きているだろう。両親からの贖罪としての愛を甘受し、弟からの哀れみと優越が混じった視線に気づかないふりをして、庇護されるべき生き物としてただ与えられた生を与えられたがままに受け入れるだろうと思う。息をするだけの生を送るだろう。

 ヴィンセントは違う。彼のなかには怒りが生まれた。社会への怒り、人々への怒り、そして自分の生そのものに対する怒りだ。社会が科学をもって規定した彼の生を彼は絶対に肯定しない。弟に挑み、定められた生き方に抗い、そして彼は自分自身の望みがそう叫ぶままに宇宙飛行士を目指す。優れた身体と精神を持つ「適正者」だけが許される宇宙の世界へ、ヴィンセントはあらゆる手段を尽くして近づこうとする。
 身分を偽り、遺伝子検査を欺いて、ヴィンセントは自分の望む生を獲得する戦いへ挑む。

 ズルだろうか? 犯罪に手を染めてまで自分の欲望を貫こうとするヴィンセントは利己的な人物だろうか?
 しかし、「自分に何ができるかを他人に決めさせない」と信じ、貫くヴィンセントの姿は、利己的であればこそ強く人々を揺るがすのだと思う。

 ヴィンセントに「適正者」の立場を与えるのは、金メダリストとなることを嘱望されながら事故によって両脚の自由を失った水泳選手のユージーンである。ヴィンセントは日々彼の血液や頭髪、尿を使ってユージーンになりすます。
 ユージーンとヴィンセントは互いが互いの似姿である。選ばれるための遺伝子を持たず動く脚を持つヴィンセントと、選ばれる遺伝子を持ち脚を失ったユージーン。二人の間に流れるのは嫉妬であり、うとましさであり、厄介者への唾棄であり、そして「自分ひとりではもう決して社会から認められることのない人間同士である」というたった一つの共通認識が育む友情である。
 社会を欺く犯罪の共犯者という始まりから、遺伝子ですべてを左右する社会への共闘者へと、ふたりの関係は移り変わってゆく。
 そして生活する金を得るために契約を交わしただけだったはずのユージーンを動かしたのは、やはりヴィンセントの強烈な信念なのだ。

 ヴィンセントは「適正者」の遺伝子を持っていない。それでも日々歩き、走り、トレーニングを重ねるその体はヴィンセントのものだ。彼は新しい宇宙飛行プロジェクトのメンバーに選任される。それを勝ち取ったのは紛れもなく「不適正者で、心臓に疾患を持ち、子供の頃からただの一度も弟に勝つことができなかったヴィンセント」なのだ。
 これ以上に何が必要なのだろう。命そのものを削るようにして宇宙飛行士という夢へ挑むヴィンセントに、あとこれ以上他になにが必要だというのだろう。そしてそれをいったい誰が決めるというのだろう。

 遺伝子操作というのはSFとして古いテーマだと思う。しかし「自分の限界は自分が決める」というヴィンセントの意思はいつどんな時どんな立場の人間が見ても揺るがない。
 シャープなデザインの近未来世界のイメージとあいまって、時代を選ばない魅力を持つSF映画を観たと思う。
1997年 | アメリカ | 106分
原題:Gattaca
監督:アンドリュー・ニコル
キャスト:イーサン・ホーク(ヴィンセント)、ユマ・サーマン(アイリーン)、ジュード・ロウ(ユージーン)、ローレン・ディーン(アントン)
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2015.08.05