本 > 日本小説
『月桃夜』 遠田 潤子
 茉莉香は奄美の夜の海をひとり漂う。横たわることもできない狭いカヤックでパドルをなくし、近づく死の気配に慄く。そして、体から半分魂の離れたその状態で、人語を話す鷲に出会う。海上を彷徨う茉莉香の生と鷲の語る島の古い話が、暗い夜を通して交差する。
 茉莉香とその兄、鷲の語る話に登場するフィエクサとサネン。『月桃夜』には二組の兄妹が登場する。これは兄と妹の物語だ。並みの兄妹とは違う、禍々しいまでに固くいびつにたわむほど強い力で結ばれた兄妹の物語だ。茉莉香が鷲に自らの生い立ちを話し、鷲がフィエクサとサネンの話を語る。現代と江戸時代を交互に行き来し、夜の物語は進む。

 ページのほとんどは鷲の語るフィエクサとサネンの物語である。ふたりが生きたのは茉莉香の生きる現代からは遠く離れた江戸時代、天保の世だ。
 その頃奄美は薩摩に支配され、砂糖黍を育て精製し、それを薩摩に上納することで暮らしていた。定められただけの砂糖を上納できない者は豪農から高利で砂糖を借り、返せなければヤンチュと呼ばれる豪農に使われる階級に落ちた。さらに、ヤンチュの女が子供を産めばその子供は生涯豪農の元で働くヒザと呼ばれる存在となる。フィエクサは生まれた時から豪農の所有物であるヒザの少年であり、サネンは父がヤンチュに落ちたために共に五つの幼さでヤンチュとなった少女だった。
 ふたりは出会い、筵に包まれて二匹の仔犬のように抱き合って眠り、支え合いながら育った。睦まじく、虐げられ搾取されながら、血の繋がらないふたりは山の神に兄であり妹であることを誓ってお互いがお互いの幸せだけを願い合い生きていた。

 このふたりの間にあるものを絆と呼べばいいのか愛と呼べばいいのか、それとももっと他の何かなのか、私にはわからない。
 物語が終盤に近づきふたりの命運が終わりを予感させ始めたあたりから、私の脳幹はじんわりとしびれて収まらず、泣き出す寸前に似た状態に陥って治らなかった。感動という表現できっと間違っていないと思う。温かいのでも微笑ましいのでもない、フィエクサとサネンがただひたすらにそれぞれに相手を想う愛情の坩堝に息が詰まる。落涙も歓びもなかったが、確かにあれも感動と呼ぶべき脳の反応の種類であっただろうと思う。

 ふたりほどではない、けれど確かに尋常ではない茉莉香と茉莉香の兄のエピソードが、それ単独で十分な凄惨さを帯びながら、フィエクサとサネンの物語に挟まれることで兄と妹という関係の業の深さをよりまざまざと生々しいものにする。精神が幼く、溢れる自分可愛さに溺れて傲慢さに抑制を利かせられない茉莉香の露悪的な語り口が、鷲の遠い昔語りであるフィエクサとサネンの像に肉感をまとわせる。

 読み始めた時は、比較的幼い文体に児童文学に近いイメージを抱いた。語彙が少なく、表現の重複する部分も多く、決してうまい文章ではないと思う。けれどその、表現にまだ粗さの残る文章の向こうで展開される物語は、強く私を引いて離さなかった。実質一日で読了した。読書に対する集中力が極端に落ちている最近の私には珍しいことだ。先へ、先へ、と物語に引かれ、読まされて、途中でやめることができなかった。
 都合のいいエンディングだ、とも思う。最後になって結局おざなりな始末をつけたように見えるというのが正直なところでもある。けれどそれは決定的な瑕疵ではない。

 フィエクサとサネンというふたりの魂が、奄美の言葉で言うところのマブリが、永劫にも近い放浪の途中で茉莉香というマブリに出会った。出会ったマブリは必ず影響し合う。
 憎しみと呪い、恐怖と悔恨にまみれて夜に沈んだマブリたちであったのに、いやむしろそんな人の道を外れたマブリ同士だったからこそ、互いの存在は最良の導きとなった。
 救いでも希望でもない。それはこの世のすべてが終わった先にしかない。ただ、まだ生きてゆくために、まだ飛び続けるために、茉莉香と鷲が果たしたのは体に強い力をとめどなく帯びさせる最上の出会いだった。
初版:2009 年 11 月 新潮社
≫ Amazon.co.jp
2012.10.09