あちこちでいい評判を聞いたので観に行ってみた。しかし最近はドキュメンタリーや単館上映の映画ばかり観ていて大作系映画からは離れていたから、正直なところ楽しめるかどうか不安だった。
何事にもなるべく雑食でいたいと思っているけれど、一方を好きになるということは、どうしてももう一方に対する見方が変化してしまうことを意味している。
けれど、そんな心配を興奮で吹き飛ばしてくれる、いい映画だった。
映像というのは映画に欠かせない要素で、同時に、映像だけに特化した映画は揶揄の対象にされる。いわゆるハリウッド映画を筆頭に、映像の良さを前面に押し出した映画をかえって忌避する傾向は、映画をよく観る人ほど多い気がする。私にもそういう面がある。
しかし、この映画を観て思ったのは、映像だけで成り立つ映画があっても良いのだということ、いやそれは当たり前の話で、むしろそういう映画だからこそ描けることがあるのだということだった。
『ゼロ・グラビティ』に特別なストーリーはない。舞台は宇宙で、多くの人々にとっては特殊な環境ではあれど、現実では起こりえないようなファンタジックな展開があるわけではない。
宇宙空間で作業中、一人の科学者が遭難し、困難な状況下で地球への生還を目指す。
これがすべてだ。ストーリーと言うほどの筋書きもない。学校で見せられる教材ビデオでもありそうな、平坦で変化のない地味な話運び。
この映画で描かれているのは、ある意味日常の風景だと思う。作中では大事故が起こるし、そもそも舞台となっている宇宙空間自体が未知の場所ではあるけれど、しかしこの世界には確かにあの光景、視界いっぱいに広がる地球を観ながら働いている人がいて、その人たちは常に自身の命が失われる危険を予測しながら宇宙空間に出ているはずだと思うのだ。
日常を映画にするのは難しい。フィクションであれドキュメンタリーであれ、“特別な何か” があるから映画は始まって、終わることができる。
20年前、宇宙をテーマにした映画は『アルマゲドン』や『ディープ・インパクト』、『インデペンデンス・デイ』など、隕石や異星人による地球規模の事件が起こるものだった。比較すると、話のスケール間違いなく小さくなっている。
ストーリーの規模は小さくなった。しかし映画のスケールはむしろ広がっている。その差分は、圧倒的な映像の力が埋めている。
この映画を観て、映像の力はここにあると体感した。映像は、平凡な世界に光を当てる力を持つ。映像には他に何ものも敵わない説得力がある。
個人的に、「映画よりも本が好きだ」と感じ続けている。だからこそ、映像の持つ説得力の抗えない強さを、間違いなく存在するものとして信じられる。
特別なストーリーも奇抜な設定もなくても、映像の力で映画は成り立ちえるという事実。それは、これまで映画化されることが難しかった世界を描くチャンスが生まれたということだ。
また、この映画を観て強く思うのは、「映画は物語のためのツールではない」ということだ。「物語のない映画があってもいい」ということ。
映画というのはとても懐の深い媒体で、極端な話、そこに映像があればそれは映画として成り立ちえると思う。それでも、これまでそういう映画がシネコンで上映されるようなメインストリームに登場しなかったのは、物語のない映像では観客を寄せることができないからだ。
しかし、映像の力がそれを可能にする。「退屈」は商業映画にとって致命的だけれど、映像が退屈を打ち払ってくれる。
言葉だけ、物語だけでは感じられないものを、映像はひとに伝えてくる。
『ゼロ・グラビティ』について言えば、「どこにも安全な場所がない」という実感だ。
主人公のライアンは宇宙空間で事故に遭い、宇宙ステーションや宇宙船を乗り継いで地球への生還を目指す。最初は宇宙服ひとつに守られていたのが、指揮官のマットに助けられ宇宙ステーションに辿り着き、かろうじて生き残っていた宇宙船に乗り込む。
しかし、どれほど「何か」の中に入っても、そこに安心はない。宇宙船の外、たった扉一枚外に出れば、そこに生命を支えるものは何もない。凍てつき、吸う空気はなく、自分の生命は確実に終わる。
たとえば日常生活において、家の中や車の中にいるとある程度の安心を感じることができる。この何気ない、あまりに当たり前の感覚が、実は「家や車の外にも酸素がある」という事実に担保されていることに、私は『ゼロ・グラビティ』を観て初めて気がついた。
宇宙空間においては、「内部」は決して「安全」や「安心」と100%結びついてはいないのだ。
そんな場所へなぜ人は出てゆこうとするのだろう、とも思った。しかしこの答えは「出てゆくことができてしまうから」と言うしかないだろうと思う。宇宙へ出て行きたいというよりは、行ける限り先へ行ってしまう、そういうサガを人は持っているのだと思う。
人は行けるだけ先へ行こうとし、そして、生きられるだけ生きようとしてしまう。それは意思や理性ではどうすることもできない、それこそ本能と言うしかないような抑えがたい何かだ。
宇宙にまつわる話は好きだけれど、こういうことを実感として知ったのは、やはり圧倒的な映像の力で目前に見せつけられたがための結果だと思う。
IMAX 3Dの美しさが本領を発揮する映画に初めて会った気がする。
しかし、最後にぼやきになってしまうけれど、無重力状態を描くことで地球という星とそこにある重力の恩恵を描くこの映画において、『Gravity』(重力)という原題を無視して『ゼロ・グラビティ』(無重力)という邦題をつけてしまったセンスだけはどうにかならなかったものか。
何事にもなるべく雑食でいたいと思っているけれど、一方を好きになるということは、どうしてももう一方に対する見方が変化してしまうことを意味している。
けれど、そんな心配を興奮で吹き飛ばしてくれる、いい映画だった。
映像というのは映画に欠かせない要素で、同時に、映像だけに特化した映画は揶揄の対象にされる。いわゆるハリウッド映画を筆頭に、映像の良さを前面に押し出した映画をかえって忌避する傾向は、映画をよく観る人ほど多い気がする。私にもそういう面がある。
しかし、この映画を観て思ったのは、映像だけで成り立つ映画があっても良いのだということ、いやそれは当たり前の話で、むしろそういう映画だからこそ描けることがあるのだということだった。
『ゼロ・グラビティ』に特別なストーリーはない。舞台は宇宙で、多くの人々にとっては特殊な環境ではあれど、現実では起こりえないようなファンタジックな展開があるわけではない。
宇宙空間で作業中、一人の科学者が遭難し、困難な状況下で地球への生還を目指す。
これがすべてだ。ストーリーと言うほどの筋書きもない。学校で見せられる教材ビデオでもありそうな、平坦で変化のない地味な話運び。
この映画で描かれているのは、ある意味日常の風景だと思う。作中では大事故が起こるし、そもそも舞台となっている宇宙空間自体が未知の場所ではあるけれど、しかしこの世界には確かにあの光景、視界いっぱいに広がる地球を観ながら働いている人がいて、その人たちは常に自身の命が失われる危険を予測しながら宇宙空間に出ているはずだと思うのだ。
日常を映画にするのは難しい。フィクションであれドキュメンタリーであれ、“特別な何か” があるから映画は始まって、終わることができる。
20年前、宇宙をテーマにした映画は『アルマゲドン』や『ディープ・インパクト』、『インデペンデンス・デイ』など、隕石や異星人による地球規模の事件が起こるものだった。比較すると、話のスケール間違いなく小さくなっている。
ストーリーの規模は小さくなった。しかし映画のスケールはむしろ広がっている。その差分は、圧倒的な映像の力が埋めている。
この映画を観て、映像の力はここにあると体感した。映像は、平凡な世界に光を当てる力を持つ。映像には他に何ものも敵わない説得力がある。
個人的に、「映画よりも本が好きだ」と感じ続けている。だからこそ、映像の持つ説得力の抗えない強さを、間違いなく存在するものとして信じられる。
特別なストーリーも奇抜な設定もなくても、映像の力で映画は成り立ちえるという事実。それは、これまで映画化されることが難しかった世界を描くチャンスが生まれたということだ。
また、この映画を観て強く思うのは、「映画は物語のためのツールではない」ということだ。「物語のない映画があってもいい」ということ。
映画というのはとても懐の深い媒体で、極端な話、そこに映像があればそれは映画として成り立ちえると思う。それでも、これまでそういう映画がシネコンで上映されるようなメインストリームに登場しなかったのは、物語のない映像では観客を寄せることができないからだ。
しかし、映像の力がそれを可能にする。「退屈」は商業映画にとって致命的だけれど、映像が退屈を打ち払ってくれる。
言葉だけ、物語だけでは感じられないものを、映像はひとに伝えてくる。
『ゼロ・グラビティ』について言えば、「どこにも安全な場所がない」という実感だ。
主人公のライアンは宇宙空間で事故に遭い、宇宙ステーションや宇宙船を乗り継いで地球への生還を目指す。最初は宇宙服ひとつに守られていたのが、指揮官のマットに助けられ宇宙ステーションに辿り着き、かろうじて生き残っていた宇宙船に乗り込む。
しかし、どれほど「何か」の中に入っても、そこに安心はない。宇宙船の外、たった扉一枚外に出れば、そこに生命を支えるものは何もない。凍てつき、吸う空気はなく、自分の生命は確実に終わる。
たとえば日常生活において、家の中や車の中にいるとある程度の安心を感じることができる。この何気ない、あまりに当たり前の感覚が、実は「家や車の外にも酸素がある」という事実に担保されていることに、私は『ゼロ・グラビティ』を観て初めて気がついた。
宇宙空間においては、「内部」は決して「安全」や「安心」と100%結びついてはいないのだ。
そんな場所へなぜ人は出てゆこうとするのだろう、とも思った。しかしこの答えは「出てゆくことができてしまうから」と言うしかないだろうと思う。宇宙へ出て行きたいというよりは、行ける限り先へ行ってしまう、そういうサガを人は持っているのだと思う。
人は行けるだけ先へ行こうとし、そして、生きられるだけ生きようとしてしまう。それは意思や理性ではどうすることもできない、それこそ本能と言うしかないような抑えがたい何かだ。
宇宙にまつわる話は好きだけれど、こういうことを実感として知ったのは、やはり圧倒的な映像の力で目前に見せつけられたがための結果だと思う。
IMAX 3Dの美しさが本領を発揮する映画に初めて会った気がする。
しかし、最後にぼやきになってしまうけれど、無重力状態を描くことで地球という星とそこにある重力の恩恵を描くこの映画において、『Gravity』(重力)という原題を無視して『ゼロ・グラビティ』(無重力)という邦題をつけてしまったセンスだけはどうにかならなかったものか。
2013年 | アメリカ | 91分
原題:Gravity
監督:アルフォンソ・キュアロン
キャスト:サンドラ・ブロック、ジョージ・クルーニー
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