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『ホテル・アイリス』 小川 洋子
 読了した夜、夢でホテル・アイリスにいた。何をしたという記憶はなくて、ただアイリスにいて、周囲を見ていた。小さなつくり、どこかうらさびれた空気、端のやぶれた壁紙や埃の溜まった窓の桟。
 夢のなかで私はたぶん、この小説の語り手の少女だった。マリの目で、自分が生きてきたアイリスを見ていた。
 小説を読んで、夢に見るほど主人公に没入するなんて、愚かしいだろうか。それでも、マリになってホテル・アイリスにいるその夢の映像を、数日経った今もはっきりと思い出す。

 高校を半年でやめたマリは、母と共に毎日ホテル・アイリスにいる。海辺の観光地にありながら海の見える部屋は二つしかないアイリスには、潮の匂いではなく向かいの加工工場から漂ってくる生魚の臭いがただよっている。父は他界し、家には母しかいない。手伝いにやってくる母の友人と三人でホテルを回している。
 ある日、マリはひとりの男と出会う。偏執的な、不安定な、みすぼらしくさえある老いた男だ。マリは男に自分を差し出す。17 歳の若い体と幼い精神をすべて男に与える。

 淫靡さ、卑猥さ、少女が踏み込んでゆくめくるめく暗く閉じた性世界。そう読み解くこともできるのだと思う。しかしそれ以上に強く目につくのは、少女とその母の関係、少女が置かれた環境の方だ。

 母は美しい我が娘を自慢にしている。娘はもう 17 にもなるというのに、毎日その髪を一本の乱れもなく椿油で結い上げる。そして言う。
「いつも言ってるだろ。髪の毛だけはきちんとしてなくちゃいけないって。洋服やハンドバッグや化粧で飾るにはお金がいるけど、髪をとかすのはただなんだからね」。
 自慢の容姿の娘を節約しながら装わす母のもとで娘は育つ。ホテルの用も家事も母の言うとおりにこなして、失敗すれば夕食を抜かれる。母に支配され、少女は育つ。
 少女の抑圧は噴き出し口をどこにも持たないまま高まってゆく。男に蔑まれ、虐げられる、ただの肉塊と化す自身にふるえるほどの恍惚を覚える少女の心性がどこから来るのか、小川洋子さんの平静な文章が語る。

 現実に起こっていることとして、ニュース記事でも見るような気持ちで少女と男の姿を思い描いてみよう。するとこのお話は「まだものを知らない少女が変質者に食い物にされる」となる。これは、本当に、ただそれだけのお話なのだ。
 それが少女の目から語られると、切なさと恋しさと悦びに満ちた、完璧で完結したお伽話のような世界に変わる。
 第三者的現実が示す二人の関係の醜悪さと、少女の主観が見る狂わんばかりにいとおしい世界の落差に思いを馳せて、最後のページを閉じる。
初版:1996 年 11 月 学習研究社
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2013.06.02