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『蜘蛛女のキス』 プイグ
 「映画が好きな方ならきっと面白く読めるかと思いますよ。」という一言と共にすすめてもらった。
 アルゼンチンの刑務所で同房になった、ゲイの中年男と過激派活動家の青年。ページはふたりの会話のみで構成されている。地の文はない。消灯後の持て余す時間を埋めるために映画好きのゲイがかつて観た映画のストーリーを詳細に語り、過激派の青年は合間合間にちゃちゃを入れながらそれを聞く。立場も、生い立ちも、思想もセクシャリティも、なにもかもが対照的なふたりの男、あるいはひとりの女とひとりの男の間が、密室の中で果てない語らいと反発を繰り返しながら、奇妙な情を生んでゆく。

 最初はとにかく面白く、ゲイの男(というより、中身はまるきりの女なのだけど)のモリーナの語り口に乗せられて活字を読み飛ばしそうになる勢いで読んでいた。うっとりと作中のヒロインに感情移入するモリーナ、その陶酔に対してあまりに現実的でユーモアのない意見を述べる活動家の青年・バレンティン、さらにその発言に噛みつくモリーナ。

 モリーナはとにかく作品が好きでたまらなくて、バレンティンの述べる多角的な視点で現実を作中に持ち込むような意見は受け入れられない。そんな彼女は私とよく似ていて、私はモリーナと一緒になってバレンティンの無神経さを憤っていた。映画を観るために生きている、映画の中に生活がある。モリーナはそういうところが私と似ている。
 そうやってモリーナの憤りを自分の胸の内にも再生させながら、同時に私は作中に生きようとする人間の視野の狭さをありありと見せつけるモリーナに懐かしい哀れみのようなものを感じてもいた。もう私はモリーナほど現実を見ずに作品に没頭できもしない。

 そんなモリーナに対して、バレンティンは現実以外に夢を見たりしない。政治的信念があり社会を変えるためにテロにも手を染め、そして今刑務所にまで押し込められたバレンティンはいついかなる時も現実にだけ生き、地を足で踏んで自分の五体だけで生きている。
 私はそういう生き方をしたことはないからバレンティンの感覚はわからない。ただ頭でだけ、バレンティンの述べる意見の正しさを理解する。彼にとって映画は娯楽であり、最低限以上は不必要な現実逃避の道具にすぎない。

 私なら、少なくともモリーナと同じくらい作品以外の世界が見えていなかった頃の私なら、バレンティンのような人種と和解することはできない。けれど、モリーナは幾度となくバレンティンの言い草に腹を立て、また傷つきながら、バレンティンを投げ出さない。謝られれば許し、バレンティンが体調をくずせばまさに献身的と言うにふさわしい看護を見せ、バレンティンを常に孤独にさせない。

 社会を変えることに人生を賭けようとしているバレンティンは愛や恋人を遠ざけている。それは仲間たちと進む活動のためには弱さでしかないと信じているからだ。
 けれどそのバレンティンが、モリーナと刑務所の牢で過ごす時間のなかで、丸みを帯びた優しさを示し始める。それは間違いなく、常に他者のために動くモリーナの姿を目の当たりにしての変化だ。

 故意に設定されたのだろう、完璧に対照的なふたりの人間が、交流によって互いに影響を及ぼし合い、変わってゆく。温かい情景だ。
 けれど、この小説を書いたのはアルゼンチンの作家で、しかもこれは 36 年前の作品だ。アルゼンチンは決して明るい歴史を歩んできた国ではない。たったふたりの個人的な交流の後ろには社会や政治という巨大な機構の気配が漂っている。それはバレンティンが折にふれて語る彼の持つ政治思想からも伺える。彼らは牢の一室でふたりきりだが、決して外界と無関係ではいられない。

 読み始めた最初から最後の一ページに至るまで面白さの度合いは変わらず、ページを繰る手のスピードは変わらなかった。けれど、モリーナとバレンティンがふたりきりで会話を交わすという体裁は変わらないまま、じわじわと見たくない社会の現実が見えてくる。しかしもうそこから目をそらすことはできない。この小説は面白くて、その面白さにもう完全に引き込まれてしまっているからだ。
 自分の読んでいるものが最初に予測したよりもはるかに多くの意味合いを含んでいたことに気づきながら、もはやその現実から逃げることもできず、最後の一ページまでを静かに気をはやらせながら息をつめて読了した。

 いや、でも、本当はそんなしんみりしたことを言わずとも、単純にふたりの会話を読んでいるだけで心の底から面白いこと必至の小説なのだ。まさに文字通り、最初の一ページを読んだら後はもうひたすらに読みふけってしまう小説。
原題:El Beso De La Mujer Araña (1976 年)
翻訳:野谷 文昭
初版:1982 年 集英社
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2012.10.05