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『私が、生きる肌』
 動揺していた。『私が、生きる肌』を観終えた直後だ。人間うろたえると冷静なふりくらいしかできなくなるものだけれど、私も思わず、「今私は映画なんて観ていなかった」というていを装っていた。
 狂気とは何かというのは長く問われている問題だ。脳の器質的損傷による狂気ではなく、精神がその形を歪めてゆくという狂気。誰も本質的に答えることはできない。けれどたまに、その有様を描き出す人物が現れる。これはそういう作品のひとつだ。

 世界に名だたる腕利きの整形外科医が、手術室を併設した自宅にひとりの人物を監禁し、彼女の顔を焼死した妻そっくりに作り換えてゆく。妻に似せるためのいくつもの“改良”をほどこし、表皮には遺伝子操作によってより強くなった皮膚を貼り、亡き妻に似て美しく、かつ死に強い人間を求め続ける。
 顔とは個人を決定するものである、とこの整形外科医は言う。これは彼が経験から得た信念であり、この信念自体が彼のアイデンティティでもある。

 彼は非常に愛情深い人間だ。それは間違いない。愛情があり、世界でもまれな手術を成功させるだけの手腕があり、有能で行動力もある。しかしその行動は狂っている。
 何が彼を狂気へ招いたのか、それはわからない。とにかく、彼には精密な狂気があった。ゆるがないし、ためらいもない。呵責もないし、恐れも、憎しみさえもおそらくは狂気のために薄れ消えてゆく。
 彼は止まらない。なぜだろう、狂気のままにひとりの人間を自分の最も望む形に塗り替えてゆく。監禁の果てに個を侵し、個を作る。倫理も正義も、何も彼を止めない。

 この映画に出てくる人々は、誰もがどこかしら歪んでいる。しかしだからこそ、彼らとは圧倒的に異なる本当の狂気がわかる。不道徳や猟奇性や強欲など、狂気でもなんでもないのだ。それは正常だからこそ生まれ得る気質ですらある。

 彼に造られた彼女は「戻りたい」ではなく「帰りたい」と思う。それは諦めに立脚している。彼女にとって、もはやかつての自分は遠く隔てられた、二度と戻ることは叶わないと直感的に諦められてしまう存在になってしまったのだ。もうそこに「戻る」という希望はない。だから彼女は、ただ自分の家族の元に帰りたいと思う。
 彼女は二度と元の生活を送ることは出来ない。ひとりの人間の生を、彼は紛うことなく粉砕した。この恐ろしい事業を一片たりとも悪びれることなく、むしろ賛美し、そして信じられるところからして、彼の狂気の瑕のなさがわかる。

 また、登場人物のちょっとしたリアクションのひとつひとつが「ああ、実際この状況に置かれたら人間皆こうするだろうな」と思わせる自然さ、無理のなさを持っていて、これが映画の空気を支えている。登場人物の感情の流れに無理がなく、だから物語の展開にもひっかかりを感じるところがなく、創作性が薄くなるぶん生々しさを持つ。

 映画を貫いているのは、アイデンティティを他者に潰されるということ。その連鎖が、この悲劇とも言えない事件を生み出した。
2011 年 | スペイン | 120 分
原題:La piel que habito
監督:ペドロ・アルモドバル
キャスト:アントニオ・バンデラス、エレナ・アナヤ、マリサ・パレデス、ジャン・コルネット、ロベルト・アラモ
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2012.07.16