本 > その他
『物質的恍惚』 ル・クレジオ
 文学的な本の感想を述べるのは難しい。私は平易な言葉に自分の文章を特化させてきた人間で、それは読み砕くのに骨が折れる文章を「文学的」という言葉でひとまとめにしようとする手抜きな部分からもわかるだろうと思う。
 ル・クレジオは 2008 年にノーベル文学賞を受賞しているフランス出身作家である。『物質的恍惚』は著者にとって初めてのエッセイ集で、彼が 27 歳の時に出版された。少し調べてみるとクレジオは歳を重ねるにつれて平明な小説を書くようになるようだけれど、少なくとも『物質的恍惚』については、私が自分の脳に染み込ませるにはハードルの高すぎる部分が多々あった。

 しかし、同時にこの一冊があまりに難解であったとも思ってはいない。それはクレジオの考えが私のものとかなり近いと感じられたることが多かったからだ。
 安易にこういうこと言うのは馬鹿だけれど、言葉に対する絶対信頼性を信じているところとか、クレジオの考えは私と似ているなあと思う。なぜクレジオはこうも私と同一のことを考えていたのかと、読みながら何度思ったか知れない。

 この本は「物質的恍惚」、「無限に中ぐらいのもの」、「沈黙」に分かれている。もっとも文量の多い「無限に中ぐらいのもの」は九つの小片にわかれている。
 「物質的恍惚」はエッセイというよりも詩文であったと思うのだけれど、「無限に中ぐらいのもの」は確かにエッセイらしい体裁を持っている。そのなかで、「書くこと」という一篇は、文章を書くことを一応は日常的に行なっている私にとって、共感し、同時に多大な示唆を与えてもらうことができた文章だった。読んでいてもっとも理解が追いついたのもこの一篇だった。

 クレジオの物事の本質を見据えた表現を読み解く能力は私にはないし、ただでさえフランス語から日本語に置き換えられる過程で多くの要素は消え、あるいは薄れている。『物質的恍惚』という本を自分は読んだのだと、そう思うことは難しい。それでも、クレジオの思考のほんの断片程度には触れられたのではないかと信じたいし、そうして見た彼の世界という広がりへの視点、生と死の相繋がった連環関係は興味深かった。
「生命がその不潔な茸を発芽させることのできる幅広い瓶」
 子宮をこんな風に描写できるということからも、クレジオが生死についていかに根源的に、深く掘り起こしていたかがわかる。

 今回、気になった部分を Tumblr に投稿しておいたので、ページが降順になっているのが残念だけれど、リンクを貼っておく。
『物質的恍惚』(ル・クレジオ, 岩波文庫)引用
原題:L'Extase materielle
翻訳:豊崎 光一
初版:1970 年 5 月 新潮社
≫ Amazon.co.jp(岩波文庫)
2012.07.12