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『水の女』 中上 健次
 5 篇の短篇が収められている。『水の女』という書名はうち 1 篇のタイトルであり、5 篇を通してのテーマでもある。
 女を嬲る男と、男を弄する女の話が 5 篇。「テレビ」や「電話」の登場しない部屋、外界への道を持たない閉じた部屋で繰り返される情交は、作者の筆で綿密に細部まで描写される。

 「赫髪」、「水の女」、「かげろう」、「鷹を飼う家」、「鬼」と並ぶ 5 篇のうち、「赫髪」から「かげろう」までは男の視点から、「鷹を飼う家」と「鬼」は女の視点から書かれる。
 男の視点で描かれる時、女に名はなくただ「女」とだけ呼ばれる。それは女に対する男の支配性を表しているように見える。性交の際に女性器の襞の一枚一枚までも描写するさまは、女体が男体のもとに暴かれてゆくように、女体が男体の支配下に入るように見える。
 が、その関係は女の視点で書かれる「鷹を飼う家」になると一転する。女には名が与えられ、男が自分を支配することを許さなくなる。しかもそれはまだ表層的な部分にすぎない。女の視点で性交が描かれる時、女は男を見ていない。男は女の体の一片にまでも神経を凝らしていたのに、女は男に我をさらしながら、男の体には大した意識を払っていない。女が見ているのは自分の内側、男が見ている自分自身だ。

 男は女の体を開くことに没頭するが、女は自分の内側、意識の世界に茫洋と漂っている。そこに男はきっかけのひとつとして存在するだけで、個としての意味を持っていない。

 女が男を自らの道具としているのを見た時、「赫髪」から「かげろう」で描かれていた「男に支配される女」が、支配されながら男を自らの思うような方向に流していたことに気がつく。それは激しい清水の奔流の強さではなく、心地よさで思考を奪って気づけば遠く外洋へと連れ出す温かい海のような一見の従順さと果てどないうねりだ。
 女が男の前から消えた時、女は男のなかから決して出てゆかない、追い出すことの叶わない確固たる存在にまで押し上げられている。

 それがもっとも顕著でわかりやすく現れているのは「かげろう」だろう。「かげろう」の語り手である広文は、「赫髪」の光造や「水の女」の富森の横暴さが少なく、生真面目さのある一面を持っている。
 だから女をただのゆきずりのままにせず女房にしたいと思い、思いあまって、5 人の男たちのなかでもっとも乱暴に女を扱う一場面も広文によって演じられる。
 しかし女は、「世帯を持とう」という広文の支配欲の表れに見えて、その実すがりつくような言葉に、あいまいな返事しか返さない。同時に、泣くほどひどい目に遭わされながら、男の部屋にまた舞い戻る。男に自分をくれてやる気はないが、男を手放してやる気もない。

 女が執着しているのは男ではなく、男のなかにいる自分自身である。女が自分に目を凝らすそのために、男はその支配欲を利用され、飼い殺される。
 私がこの小説をこう読むのは間違いなく私が女として生きているからだろう。この 5 篇の読書を通して男という生き物に対して溜飲の下がる思いがしたことを私は否定しない。
初版:1979 年 3 月 作品社
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2013.05.05