はやみねかおるさんの「夢水清志郎」シリーズ、『かいじゅうになった女の子』、さとうまきこさんの『ぼくの・ミステリーなあいつ』、「大どろぼうホッツェンプロッツ」の三部作、『東京ワルがき列伝』。
ほんとうに子供だった頃に読んだ本は、思い出さない時にもいつも必ず脳裏にあって、人間性の底をしっかりと固めていてくれる。あの頃本はいつでも読んでいたくて、そして実際にいつだって読みたいだけ読んだ。それが可能だった。夢中というのとも違って、それこそ時間という概念のない、自分と本だけがある世界が目の前に広がっていた。
『モモ』を読んでいる間、もう過ぎ去ったと思っていた、何も本を邪魔するもののない世界、本と私を遮るもののない世界の気配が、時おりふと記憶のなかの匂いみたいにまざまざと蘇ってきた。とっくに燃えさって次の私に世界を譲ったと思っていた幼い本読みの私が、本当はまだ、ほんのわずかにだけれど残っていたことに気がついた。
とても不思議な感覚だった。児童書を読んでいるから、というだけの理由では断じてない。通勤電車のなかで立ちながら、ノートパソコンの開かれた机に向かいながら『モモ』を読んでいると、「こんなところで読む本じゃない」という強い衝動に駆られた。子供の頃、「もう寝なさい」と叱られて、布団のなかに懐中電灯を持ち込んで本を読んだ。車のなかでも、家族と食卓を囲みながらでも本を読んだ。そういう、本を読む以外のことが何一つ存在しない場所で読む本だと、何度も強く感じた。消えかけた熾き火のような幼い読書家の自分に頑張ってふいごで空気を送りながら読み続けた。
なぜだろう。たぶん、あの頃の私が読む方が、今の私が読むよりもずっとずっと楽しくて、面白くて、人間から時間を盗んでゆく人間どろぼうと戦うモモやマイスター・ホロのかけがえない言葉を、頭でなく感覚で受け止められたと直感したからだ。
時間とはなんだろう。答えようと思っても誰にも正解は出せない、同時にひとりひとりが答えを探すしかないこの問いが、『モモ』の物語を奏でる。
より速い飛行機や新幹線を作り、人間の労働が減るようにと機械を発明し、効率のいい生活を求める。そうやって時間は大切だ、有限だと口々に唱えながら、必死で節約したはずの時間は果たしてどこへ行っているのだろう? 本を読むにも「早く読み終えて次の本を」と思い、映画を観る前に「果たして二時間を費やす価値がある作品だろうか」と吟味する。
次へ、他へと意識を向けて、いったいその次とは、他とは何なんだろう? 相手の話すことを本当に聞くことのできるモモのように、たった今目の前にあり自分が触れているものを本当に見たり、聞いたり、読んだりすることができないなら、大切に向き合うことができないのなら、それは時間を節約するつもりでただ無駄にしているんじゃないだろうか。
いつだって本を手放さなかった子供の私は、時間を惜しんでいたわけではない。ただ読みたくて、ずっと読んでいたくて、だからいつまでも読んでいただけのことだった。同じ本を繰り返し読むことを、時間がもったいないなどとは夢にも思いはしなかった。
一秒、一分、一時間は、何をしていたところで過ぎてゆく。その時間を自分を育むために使うか、ただ疲弊するだけの時間にするかは、ひとりひとりが自分自身で決めることだ。
『モモ』ではモモが時間どろぼうから私たちの時間を取り戻してくれたけれど、この世界にモモはいない。もしモモがこの世界に生まれることができるとしたら、それはひとりひとりの心のなかしかない。何人の心のなかに小さな女の子モモが生まれるかが、ひとがひととして暮らせるかどうかの危機を左右する。
大人も読む価値がある児童文学、というフレーズが山のように寄せられる『モモ』に、やっぱりあえて、「子供の頃に読んでおきたかった」という感想を言いたい。だってこれはやっぱり、子供が一番楽しめる本だと思うのだ。時計の針がなんの意味も持たなかったあの頃に、繰り返し、繰り返し、お話の隅々まで覚えてしまうほど何度も、この本を読んでいたかった。
それはもちろん、今読んでよかったという心からの思いを否定するわけではないのだけれど。
ほんとうに子供だった頃に読んだ本は、思い出さない時にもいつも必ず脳裏にあって、人間性の底をしっかりと固めていてくれる。あの頃本はいつでも読んでいたくて、そして実際にいつだって読みたいだけ読んだ。それが可能だった。夢中というのとも違って、それこそ時間という概念のない、自分と本だけがある世界が目の前に広がっていた。
『モモ』を読んでいる間、もう過ぎ去ったと思っていた、何も本を邪魔するもののない世界、本と私を遮るもののない世界の気配が、時おりふと記憶のなかの匂いみたいにまざまざと蘇ってきた。とっくに燃えさって次の私に世界を譲ったと思っていた幼い本読みの私が、本当はまだ、ほんのわずかにだけれど残っていたことに気がついた。
とても不思議な感覚だった。児童書を読んでいるから、というだけの理由では断じてない。通勤電車のなかで立ちながら、ノートパソコンの開かれた机に向かいながら『モモ』を読んでいると、「こんなところで読む本じゃない」という強い衝動に駆られた。子供の頃、「もう寝なさい」と叱られて、布団のなかに懐中電灯を持ち込んで本を読んだ。車のなかでも、家族と食卓を囲みながらでも本を読んだ。そういう、本を読む以外のことが何一つ存在しない場所で読む本だと、何度も強く感じた。消えかけた熾き火のような幼い読書家の自分に頑張ってふいごで空気を送りながら読み続けた。
なぜだろう。たぶん、あの頃の私が読む方が、今の私が読むよりもずっとずっと楽しくて、面白くて、人間から時間を盗んでゆく人間どろぼうと戦うモモやマイスター・ホロのかけがえない言葉を、頭でなく感覚で受け止められたと直感したからだ。
時間とはなんだろう。答えようと思っても誰にも正解は出せない、同時にひとりひとりが答えを探すしかないこの問いが、『モモ』の物語を奏でる。
より速い飛行機や新幹線を作り、人間の労働が減るようにと機械を発明し、効率のいい生活を求める。そうやって時間は大切だ、有限だと口々に唱えながら、必死で節約したはずの時間は果たしてどこへ行っているのだろう? 本を読むにも「早く読み終えて次の本を」と思い、映画を観る前に「果たして二時間を費やす価値がある作品だろうか」と吟味する。
次へ、他へと意識を向けて、いったいその次とは、他とは何なんだろう? 相手の話すことを本当に聞くことのできるモモのように、たった今目の前にあり自分が触れているものを本当に見たり、聞いたり、読んだりすることができないなら、大切に向き合うことができないのなら、それは時間を節約するつもりでただ無駄にしているんじゃないだろうか。
いつだって本を手放さなかった子供の私は、時間を惜しんでいたわけではない。ただ読みたくて、ずっと読んでいたくて、だからいつまでも読んでいただけのことだった。同じ本を繰り返し読むことを、時間がもったいないなどとは夢にも思いはしなかった。
一秒、一分、一時間は、何をしていたところで過ぎてゆく。その時間を自分を育むために使うか、ただ疲弊するだけの時間にするかは、ひとりひとりが自分自身で決めることだ。
『モモ』ではモモが時間どろぼうから私たちの時間を取り戻してくれたけれど、この世界にモモはいない。もしモモがこの世界に生まれることができるとしたら、それはひとりひとりの心のなかしかない。何人の心のなかに小さな女の子モモが生まれるかが、ひとがひととして暮らせるかどうかの危機を左右する。
大人も読む価値がある児童文学、というフレーズが山のように寄せられる『モモ』に、やっぱりあえて、「子供の頃に読んでおきたかった」という感想を言いたい。だってこれはやっぱり、子供が一番楽しめる本だと思うのだ。時計の針がなんの意味も持たなかったあの頃に、繰り返し、繰り返し、お話の隅々まで覚えてしまうほど何度も、この本を読んでいたかった。
それはもちろん、今読んでよかったという心からの思いを否定するわけではないのだけれど。
原題:MOMO
翻訳:大島 かおり
初版:1976 年 9 月 岩波書店
≫ Amazon.co.jp(岩波少年文庫)