第一次世界大戦の終戦からまだ間もないイギリス、初老に差し掛かったクラリッサ・ダロウェイは夜のパーティのため朝日の差すなか花を買いに出かける。時計の鐘の音が同心円状に広がるロンドンの街で、数々の通りを縦横に行きかい、ほんのわずかな時間ずつを共有しまた離れてゆく人々。
6 月のある一日を舞台に、視点を絶え間なく変えてゆく文章と、人の意識によりそった文体が、死に裏打ちされた生そのものを描き出す。
文章の視点は常に入れ替わり、水の流れのように留まることを知らない。ほんの数段落ごとに視点が変化する。さっきまではクラリッサ、次の段落からは彼女のかつての恋人ピーター。絶え間なく入れ替わる視点が書き重ねるという珍しい手法の文章のなかで、登場人物たちは一人ひとりがそれぞれに人生を生き、互いに出会い、あるいは見かけ、あるいはただすれ違っている。
全編を通して多くの人々が登場し、なかにはほんの数行しか語られない人々もいる。しかしそんな、ごくささやかな脇役といった人々でさえ、名前を与えられ一登場人物として扱われる。それはこの一冊の小説のなかにおいて彼ら彼女らも主人公クラリッサと同等に重みのある人生を与えられているということだ。
現実の街に生きる人間の誰一人として誰かの脇役ではないように、この小説では現れるすべての人々にその人の人生がある。
そんな風に無数の人々が生きるロンドンの一画で、クラリッサと彼女にまつわる人々が入れ替わり立ち代りに何かを見、何かを感じ、過去を思い出し未来を思い描き、それが描写されてゆくことで文章は積み上げられ小説は形を得てゆく。
この小説に中心となる事件はない。クラリッサがパーティを開くその日、ロンドンのあちらこちらで人々がそれぞれに行き交い、自分の生活をする。それだけだ。
ある人には平凡な一日であり、他のある人には決定的な一日である。人の行動は必ず誰かに影響し、同時にそのほとんどは誰にも気にかけられることのないまま忘れ去られる些末事である。
世界を覆すほどの何事もないが、人のいるところでは必ず何かが起き続けている。この小説を示すこの一文は、同時に人生そのものでもある。
群像劇というのとも違う、人の意識をできる限りありのままに描写した結果積み上がった、これは人の生きることそのままの小説だ。
文中では、その的確さに心臓を掴まれたような気分になる豊かな比喩表現が頻出する。初めて見る表現なのに切なくなるまでに懐かしさを感じるのは、誰もが持つ原体験を極上の明敏さで活写しているからだ。文章の隅々までが、青春のまっただ中を疾駆する若者の集団のような瑞々しさを放っている。
文章を読むだけでまずもう心地が良い。訳者の土屋政雄さんの力ももちろんある。『ダロウェイ夫人』はそういう一冊だった。
そして心地よさのまま読み進むと、指先がいつか不変で有限の生そのものに触れていることに気づく。
6 月のある一日を舞台に、視点を絶え間なく変えてゆく文章と、人の意識によりそった文体が、死に裏打ちされた生そのものを描き出す。
文章の視点は常に入れ替わり、水の流れのように留まることを知らない。ほんの数段落ごとに視点が変化する。さっきまではクラリッサ、次の段落からは彼女のかつての恋人ピーター。絶え間なく入れ替わる視点が書き重ねるという珍しい手法の文章のなかで、登場人物たちは一人ひとりがそれぞれに人生を生き、互いに出会い、あるいは見かけ、あるいはただすれ違っている。
全編を通して多くの人々が登場し、なかにはほんの数行しか語られない人々もいる。しかしそんな、ごくささやかな脇役といった人々でさえ、名前を与えられ一登場人物として扱われる。それはこの一冊の小説のなかにおいて彼ら彼女らも主人公クラリッサと同等に重みのある人生を与えられているということだ。
現実の街に生きる人間の誰一人として誰かの脇役ではないように、この小説では現れるすべての人々にその人の人生がある。
そんな風に無数の人々が生きるロンドンの一画で、クラリッサと彼女にまつわる人々が入れ替わり立ち代りに何かを見、何かを感じ、過去を思い出し未来を思い描き、それが描写されてゆくことで文章は積み上げられ小説は形を得てゆく。
この小説に中心となる事件はない。クラリッサがパーティを開くその日、ロンドンのあちらこちらで人々がそれぞれに行き交い、自分の生活をする。それだけだ。
ある人には平凡な一日であり、他のある人には決定的な一日である。人の行動は必ず誰かに影響し、同時にそのほとんどは誰にも気にかけられることのないまま忘れ去られる些末事である。
世界を覆すほどの何事もないが、人のいるところでは必ず何かが起き続けている。この小説を示すこの一文は、同時に人生そのものでもある。
群像劇というのとも違う、人の意識をできる限りありのままに描写した結果積み上がった、これは人の生きることそのままの小説だ。
文中では、その的確さに心臓を掴まれたような気分になる豊かな比喩表現が頻出する。初めて見る表現なのに切なくなるまでに懐かしさを感じるのは、誰もが持つ原体験を極上の明敏さで活写しているからだ。文章の隅々までが、青春のまっただ中を疾駆する若者の集団のような瑞々しさを放っている。
文章を読むだけでまずもう心地が良い。訳者の土屋政雄さんの力ももちろんある。『ダロウェイ夫人』はそういう一冊だった。
そして心地よさのまま読み進むと、指先がいつか不変で有限の生そのものに触れていることに気づく。
原題:Mrs. Dalloway
翻訳:土屋 政雄
初版:1955 年
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