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『虹の谷の五月』 船戸 与一
 フィリピン・セブ島、ガルソボンガ地区(バランガイ)。電気も水道も引かれていない集落に暮らすトシオ・マナハン。日本人の父を持つが顔も見たことがなく、母はエイズで死んだ。祖父とともに軍鶏を育て、闘鶏で生計を立てている。
 雨季になると丸い虹が出る「虹の谷」への道を唯一知る少年で、虹の谷にはたったひとりで政府と戦い続ける元新人民軍ゲリラのホセ・マンガハスがひっそりと隠れ暮らしている。トシオは年に数度虹の谷を訪れ、ホセとひそかな交流を持つ。
 ガルソボンガ地区の人間からは日本人との混血児として「ジャピーノ」と蔑称され、決してゆとりのある生活ではない。それでも、祖父や尊敬する博識の青年ラモン、その妹メグといった人々と共に日々を暮らしていた。
 しかし 5 月のある日、ガルソボンガ地区で生まれ育ちながら 21 年前に地区を出、日本人の有名画家と結婚してヨコハマで贅沢に暮らしているクイーンことシルビア・ガラン・デ・オオシタがガルソボンガ地区に凱旋した。クイーンはトシオに虹の谷へ案内することを命じ、その一事から、トシオの周辺、そしてガルソボンガ地区そのものが変化してゆく。

 厚みのある文庫本上下巻の長編小説だが、トシオの一人称で語られるこの小説は非常に読みやすくあっという間に 800 ページ超を読みきれてしまう。
 1998 年 5 月、1999 年 5 月、2000 年 5 月のガルソボンガ地区を舞台にし、トシオは 13 歳、14 歳、15 歳と成長してゆく。

 作者の船戸与一さんは世界のさまざまな地域を舞台に小説を書いているらしく、この『虹の谷の五月』ではフィリピンの生活がまるで現地で暮らす人物が書いたかのように鮮やかに描き出されている。翻訳小説を読んでいる気分にさえ襲われる。
 完璧に構成された日本とは違う国のなかで描かれるのは、正統派の少年の成長物語だ。賄賂が横行し、ゲリラ掃討戦など不穏な空気のまとわりつくなかで、トシオの周囲には動かしがたい事件が多く起こる。子供であるトシオにできることはほとんどなく、事態に翻弄され、自分の無力さや愚かさに舌を打つ思いを幾度も重ねる。
 私から見て、トシオは年齢以上にしっかりとした賢い子供だ。だが、それでも決して敵わない出来事ばかりが起こるのだ。

 その現実を、トシオは拗ねない。怒り、悲しみ、それに愛情。トシオはひとよりも感情が激しい。その激しさをなだめたり、誤魔化したりせず、すべてをありのままに発露しながら生身の体そのものでままならない現実に真正面から立ち向かう。トシオの感情の激しさは生そのものの激しさ、生きることへの強さの表れだ。
 無力さをすねない、できることはすべてする、できないことに固執してできることを失わない。これを強さと言う以外にどう表現できるだろう。純粋至極の強さはひとを無条件に感動させる。誇り高い祖父に育てられたトシオが少年から男へと立ち上がってゆく姿が、この一篇に収められている。
 トシオの強さ、メグの清廉さ、ラモンの弱さ、祖父の優しさ。ホセの信念。それぞれの登場人物が持つそれぞれの魅力がおのおのに折り重なって、フィリピンの片隅が輝きを放つ。
初版:2000 年 5 月 集英社
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2013.02.16