まずは、これがどのような本なのかを書く。
イタリア人のウンベルト・エーコとフランス人のジャン=クロード・カリエールによる本の世界にまつわる対談。エーコは記号学者、カリエールは脚本家。共に古書や稀覯本の蒐集家であり、愛書家である(稀覯本とは「古書や限定版など、世間で容易には見られない珍重すべき書物」。「デジタル大辞泉」より)。
邦題は原題とは少し違っていて、訳者あとがきによると原題の直訳は「本から離れようったってそうはいかない」。
目次を列挙すると、「本は死なない」、「耐久メディアほどはかないものはない」、「鶏が道を横切らなくなるのには一世紀かかった」、「ワーテルローの戦いの参戦者全員の名前を列挙すること」、「落選者たちの復活戦」、「今日出版される本はいずれもポスト・インキュナビュラである」、「是が非でも私たちのもとに届くことを望んだ書物たち」、「過去についての我々の知識は、馬鹿や間抜けや敵が書いたものに由来している」、「何によっても止められない自己顕示」、「珍説愚説礼讃」、「インターネット、あるいは「記憶抹殺刑」の不可能性」、「炎による検閲」、「我々が読まなかったすべての本」、「祭壇上のミサ典書、「地獄」にかくまわれた非公開本」、「死んだあと蔵書をどうするか」。
装幀が凝っている。黒いカバーに古びた本の写真が暗く印刷され、カバーのタイトルや著者名は箔押しになっている。小口、天、地の三方が青に塗られている。こんな装幀はめったに見かけない。さらに、472 ページという大部の本であるわりにかなり軽い。見るにも読むにも心地良い本であるようにと気配られて作られた本だとわかる。
帯には「紙の本は、電子書籍に駆逐されてしまうのか?」と大きく書かれている。このアオリといい邦題といい、あたかもふたりの老齢の愛書家がいかに紙の本は電子書籍よりも素晴らしいかについて語り尽くす本かのようだけれど、実際デジタルデータの書籍と紙の書籍を直接比較検討した章は「本は死なない」、「耐久メディアほどはかないものはない」の二章に過ぎない。
また、重厚な装幀にひるんで読み始める前は「読了するのに数週間はかかるだろう」と身構えていたが、いざ読み進めてみると対談部分はあっけにとられるほど読みやすい。知らない本も知らない著者も知らない歴史も大量に、それこそ怒涛のごとくエーコとカリエールの口から溢れてくるのだけど、それらはどれ一つとっても難解ではない。事情があって読了に三週間がかかってしまったけれど、本来なら遅読の私でも一週間かからず読みきれたはずだ。
具体的にふたりの語ったエピソードを挙げようかとも思うのだけど、どれも興味深く、なおかつ読むひとによってもっとも気にかかるテーマも違うだろうと思うのでそれはやめておく。
本を読むのが好きな読書家と、本そのものを愛する愛書家が似て非なる存在である。たとえば私自身について言うと、第一に本は「読むもの」だと思っているのでまず読書家でありたいと願い、その上で本という「物体そのものを愛でる」愛書家でもあることができたならさらに幸福だと思っている。
本の内容にだけ興味のある純粋な読書家にとっては、もしかしたらこの本はさほどの意味を持たないかもしれない。ふたりが語るのはとにかく本についての事々だけだ。本、本を書いた人、本を読む人、本を持つ人、本を焼いた人、本を尊崇する人、本を忌む人、本を作る文化、本を持たない宗教、本の選び方、本との関わり方。本そのものに対する愛着のない人には、何千という古書や稀覯本を蒐集し読まないかもしれない本を本棚に入れておくふたりの感覚は理解しがたいのかもしれない。
カリエールは言っている。
「本棚は、必ずしも読んだ本やいつか読むつもりの本を入れておくものではありません。(中略)本棚に入れておくのは、読んでもいい本です。あるいは、読んでもよかった本です。そのまま一生読まないのかもしれませんけどね、それでかまわないんですよ。」(p.382)
本は読むものと思っている私は、100%この発言に同感することはない。しかし同時に、読めないかもしれない可能性を考えながら積読本を買い続けてしまう私を安堵させてくれる言葉でもある。
本が好きなひとなら、誰しもその世界の広大さに圧倒された経験があるはずだと思う。銀河系にも例えられる本の世界は、探索しようにも人間ひとりの一生ではあまりに時間が足りない。日に何冊の本を読めばこの世にある本のうち主要なものだけでもすべて読了することができるのか、考えるだけで気が遠のく。
そういう時は、ひとの力を借りればいい。この一冊を読んで、そう力が抜けるのを感じた。エーコとカリエールは私が読んだことも見たこともない本を何万冊と読み、それらについて数行の文章で語ってくれる。要約やダイジェスト版を読んでもその本を読んだことにはならない。けれど、その本の存在を知ることはできる。
すべての本を愛するひとに、読まれるべき本だと思う。そもそも、ただ手に取るだけで幸福感を覚えさせてくれるこんな装幀の本が新刊本として書店に流通すること自体が、まず昨今では稀有なことなのだから。
イタリア人のウンベルト・エーコとフランス人のジャン=クロード・カリエールによる本の世界にまつわる対談。エーコは記号学者、カリエールは脚本家。共に古書や稀覯本の蒐集家であり、愛書家である(稀覯本とは「古書や限定版など、世間で容易には見られない珍重すべき書物」。「デジタル大辞泉」より)。
邦題は原題とは少し違っていて、訳者あとがきによると原題の直訳は「本から離れようったってそうはいかない」。
目次を列挙すると、「本は死なない」、「耐久メディアほどはかないものはない」、「鶏が道を横切らなくなるのには一世紀かかった」、「ワーテルローの戦いの参戦者全員の名前を列挙すること」、「落選者たちの復活戦」、「今日出版される本はいずれもポスト・インキュナビュラである」、「是が非でも私たちのもとに届くことを望んだ書物たち」、「過去についての我々の知識は、馬鹿や間抜けや敵が書いたものに由来している」、「何によっても止められない自己顕示」、「珍説愚説礼讃」、「インターネット、あるいは「記憶抹殺刑」の不可能性」、「炎による検閲」、「我々が読まなかったすべての本」、「祭壇上のミサ典書、「地獄」にかくまわれた非公開本」、「死んだあと蔵書をどうするか」。
装幀が凝っている。黒いカバーに古びた本の写真が暗く印刷され、カバーのタイトルや著者名は箔押しになっている。小口、天、地の三方が青に塗られている。こんな装幀はめったに見かけない。さらに、472 ページという大部の本であるわりにかなり軽い。見るにも読むにも心地良い本であるようにと気配られて作られた本だとわかる。
帯には「紙の本は、電子書籍に駆逐されてしまうのか?」と大きく書かれている。このアオリといい邦題といい、あたかもふたりの老齢の愛書家がいかに紙の本は電子書籍よりも素晴らしいかについて語り尽くす本かのようだけれど、実際デジタルデータの書籍と紙の書籍を直接比較検討した章は「本は死なない」、「耐久メディアほどはかないものはない」の二章に過ぎない。
また、重厚な装幀にひるんで読み始める前は「読了するのに数週間はかかるだろう」と身構えていたが、いざ読み進めてみると対談部分はあっけにとられるほど読みやすい。知らない本も知らない著者も知らない歴史も大量に、それこそ怒涛のごとくエーコとカリエールの口から溢れてくるのだけど、それらはどれ一つとっても難解ではない。事情があって読了に三週間がかかってしまったけれど、本来なら遅読の私でも一週間かからず読みきれたはずだ。
具体的にふたりの語ったエピソードを挙げようかとも思うのだけど、どれも興味深く、なおかつ読むひとによってもっとも気にかかるテーマも違うだろうと思うのでそれはやめておく。
本を読むのが好きな読書家と、本そのものを愛する愛書家が似て非なる存在である。たとえば私自身について言うと、第一に本は「読むもの」だと思っているのでまず読書家でありたいと願い、その上で本という「物体そのものを愛でる」愛書家でもあることができたならさらに幸福だと思っている。
本の内容にだけ興味のある純粋な読書家にとっては、もしかしたらこの本はさほどの意味を持たないかもしれない。ふたりが語るのはとにかく本についての事々だけだ。本、本を書いた人、本を読む人、本を持つ人、本を焼いた人、本を尊崇する人、本を忌む人、本を作る文化、本を持たない宗教、本の選び方、本との関わり方。本そのものに対する愛着のない人には、何千という古書や稀覯本を蒐集し読まないかもしれない本を本棚に入れておくふたりの感覚は理解しがたいのかもしれない。
カリエールは言っている。
「本棚は、必ずしも読んだ本やいつか読むつもりの本を入れておくものではありません。(中略)本棚に入れておくのは、読んでもいい本です。あるいは、読んでもよかった本です。そのまま一生読まないのかもしれませんけどね、それでかまわないんですよ。」(p.382)
本は読むものと思っている私は、100%この発言に同感することはない。しかし同時に、読めないかもしれない可能性を考えながら積読本を買い続けてしまう私を安堵させてくれる言葉でもある。
本が好きなひとなら、誰しもその世界の広大さに圧倒された経験があるはずだと思う。銀河系にも例えられる本の世界は、探索しようにも人間ひとりの一生ではあまりに時間が足りない。日に何冊の本を読めばこの世にある本のうち主要なものだけでもすべて読了することができるのか、考えるだけで気が遠のく。
そういう時は、ひとの力を借りればいい。この一冊を読んで、そう力が抜けるのを感じた。エーコとカリエールは私が読んだことも見たこともない本を何万冊と読み、それらについて数行の文章で語ってくれる。要約やダイジェスト版を読んでもその本を読んだことにはならない。けれど、その本の存在を知ることはできる。
すべての本を愛するひとに、読まれるべき本だと思う。そもそも、ただ手に取るだけで幸福感を覚えさせてくれるこんな装幀の本が新刊本として書店に流通すること自体が、まず昨今では稀有なことなのだから。
原題:N'pspérez pas vous débarrasser des livres
翻訳:工藤 妙子
初版:2010 年 12 月 阪急コミュニケーションズ
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