小説を読んでいる時に作者の来歴は気にしない。むしろ、作品と作者はできる限り断絶している方がいい。作品に作者の影は必要ないと思っている。
けれど、今回に限っては読んでいる途中で作者の経歴をネットで調べた。「短篇集」となってはいるけれど、ほとんどエッセイのような体で書かれたこの小説には日野啓三さんの気配がとても濃く、日野さんのことを知らないまま読み進めるのは落ち着かなかった。
2000 年の元日、クモ膜下出血にて緊急入院したところから始まるこの短篇集は、おおむね時間を追いながら 2001 年の秋までにかけて、日野さんの見た世界の姿を描いてゆく。2000 年のクモ膜下出血から遡ること 10 年の間に、日野さんは腎臓ガン、膀胱ガン、鼻腔ガンを経験している。死んでおかしくない病から幾度も立ち返りながら、日野さんはその現世をなかば離れた脳で幻想、あの世、過去をこの世に呼び込む。病棟の屋上にはあやしい人影がゆらぎ、東京の夜景はソウルになる。そしてソウルからは富士山が見える。
自由にならない体とたやすく幻を見る脳、しばしば過去へと飛んでゆく意識、歩くことをなかなか思い出そうとしない両脚。かつて特派員として海外を飛び歩いていた時代を持つ日野さんにとっては、我が身を我が身と思えずはがゆくてたまらない時間であったとしても何もおかしくはない状態だと思う。
けれど、その状態で日野さんはただ淡々と、触れることのできる物質的現実も、彼の脳のなかでだけ事実である単なる幻想も、等しく彼の目に映るものとして描いてゆく。現実と記憶と幻はもつれることなく並行して日野さんの眼前にあり、そしてそれらはやはり滞りのない実直な筆致で速すぎず遅すぎないリズムで文章に起こされてゆく。
人は自分の見たいものだけを見る、と言う。この短篇集を読んでいると、ならば体の目が見たものと脳が幻視したものとに区別をつけることに、果たして価値はあるのだろうかという考えにまで行き着いてしまう。
占領下の朝鮮・京城で幼少期を過ごし、引き上げを体験し、その後新聞記者として国々を歩いた日野さんの脳には、生々しい幼い頃の記憶、まざまざと思い出すことのできる異国の情景、蓄えてきた歴史的、社会的知識がある。それらが日野さんの脳内で原子レベルに至るまで無音のまま混ぜ合わされ、小説というかたちになって生まれ落ちてくる。
ストーリーのないこの本を「小説」と呼ぶことに私は違和感がある。エッセイではないだろうか、と思う。しかし、作者の日野さんにとってこれはやはり小説なのだ。それはたぶん、日野さんが自分の空想をありのままに綴っているところに理由があるのではないかと思う。記者であった日野さんは、事実と意見を明確に分ける人物だろう。自分の脳内をなにも分別せず表したこの文章は、やはり日野さんの小説と呼ぶべき作品なのだろうと思う。
小説は虚構だ。日野さんが自分自身の意識を語ったこの本は、一見小説のようではない。それでもなお、自身の持つ虚構を書き起こしたという一点でもって、これは小説である。
この本が出版された 2002 年の秋、日野さんは永眠された。
けれど、今回に限っては読んでいる途中で作者の経歴をネットで調べた。「短篇集」となってはいるけれど、ほとんどエッセイのような体で書かれたこの小説には日野啓三さんの気配がとても濃く、日野さんのことを知らないまま読み進めるのは落ち着かなかった。
2000 年の元日、クモ膜下出血にて緊急入院したところから始まるこの短篇集は、おおむね時間を追いながら 2001 年の秋までにかけて、日野さんの見た世界の姿を描いてゆく。2000 年のクモ膜下出血から遡ること 10 年の間に、日野さんは腎臓ガン、膀胱ガン、鼻腔ガンを経験している。死んでおかしくない病から幾度も立ち返りながら、日野さんはその現世をなかば離れた脳で幻想、あの世、過去をこの世に呼び込む。病棟の屋上にはあやしい人影がゆらぎ、東京の夜景はソウルになる。そしてソウルからは富士山が見える。
自由にならない体とたやすく幻を見る脳、しばしば過去へと飛んでゆく意識、歩くことをなかなか思い出そうとしない両脚。かつて特派員として海外を飛び歩いていた時代を持つ日野さんにとっては、我が身を我が身と思えずはがゆくてたまらない時間であったとしても何もおかしくはない状態だと思う。
けれど、その状態で日野さんはただ淡々と、触れることのできる物質的現実も、彼の脳のなかでだけ事実である単なる幻想も、等しく彼の目に映るものとして描いてゆく。現実と記憶と幻はもつれることなく並行して日野さんの眼前にあり、そしてそれらはやはり滞りのない実直な筆致で速すぎず遅すぎないリズムで文章に起こされてゆく。
人は自分の見たいものだけを見る、と言う。この短篇集を読んでいると、ならば体の目が見たものと脳が幻視したものとに区別をつけることに、果たして価値はあるのだろうかという考えにまで行き着いてしまう。
占領下の朝鮮・京城で幼少期を過ごし、引き上げを体験し、その後新聞記者として国々を歩いた日野さんの脳には、生々しい幼い頃の記憶、まざまざと思い出すことのできる異国の情景、蓄えてきた歴史的、社会的知識がある。それらが日野さんの脳内で原子レベルに至るまで無音のまま混ぜ合わされ、小説というかたちになって生まれ落ちてくる。
ストーリーのないこの本を「小説」と呼ぶことに私は違和感がある。エッセイではないだろうか、と思う。しかし、作者の日野さんにとってこれはやはり小説なのだ。それはたぶん、日野さんが自分の空想をありのままに綴っているところに理由があるのではないかと思う。記者であった日野さんは、事実と意見を明確に分ける人物だろう。自分の脳内をなにも分別せず表したこの文章は、やはり日野さんの小説と呼ぶべき作品なのだろうと思う。
小説は虚構だ。日野さんが自分自身の意識を語ったこの本は、一見小説のようではない。それでもなお、自身の持つ虚構を書き起こしたという一点でもって、これは小説である。
この本が出版された 2002 年の秋、日野さんは永眠された。
初版:2002 年 5 月 集英社
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