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『戦争における「人殺し」の心理学』 デーヴ・グロスマン
 題名に「戦争における」と入ってはいるけれど、戦争に関心があるなしにかかわらず読む価値のある本だと思う。著者はアメリカ人なので日本の状況とは一致しない部分も多いけれど、殺人や残酷な傷害事件が増加している社会への示唆がこの本には含まれている。

 かつて人は家で生まれ家で死に、死は生活のなかに生と共にあるものだった。しかし、現代では死は厳重に隠されている。そして死が遠ざけられた現代社会では、かえって映画やゲームでの残虐描写は増えている。隠され、抑圧された死が、歪んだかたちでの発露した結果だ。生の延長にある死、本来ならば悲しくはあっても残酷ではない死を人々は過剰に恐れ、忌避し、そしてかえって妄執に取り憑かれるようになってしまった。
 死や殺人を知り死の抑圧から解放されることは、現代社会の成員のひとりとして社会を健全に営んでゆくために必要なプロセスだ。

 たたき上げの軍人であり歴史学者かつ心理学者でもある著者が、「戦争で人を殺す際の兵士の心理」、「軍が兵士を『敵を殺せる』よう育て上げるための訓練とその功罪」、「社会が兵士に負うべき責任」など、広い範囲にわたって解説する。
 死や殺人を知らない社会で育った人間が殺人を行った兵士の心理を知ろうとすることを、著者は「セックスを学ぶ童貞の世界」と表現する。しかしもちろん、社会の構成員全員が実際に戦場に足を踏み入れて人を殺してくるわけにはいかない。だからこの本を読む必要が生まれる。

 第二次世界大戦の時、アメリカ軍の発砲率は 15〜20%だった。それがベトナム戦争では 90〜95%に増加している。
 人間は「同類である人間を殺す」ことに強烈な抵抗感がある。だから敵兵でなく空に向けて発砲したり、同じ隊のメンバーのサポートに回ったりして発砲を避けようとする。それが15〜20%という数字に現れている。「兵士は平然と敵を殺せるもの」という認識は大間違いで、古くから多くの兵士が敵を殺すことをためらい、戦闘を避けてきた。

 その根源的な殺人への抵抗感、生物として種の存続のために持っている根強い抵抗感を薄れさせる技術、「安全装置」を外す訓練が、第二次世界大戦後には行われてきた。
 その技術は本文で詳述されているけれど、おおざっぱに言うと「敵を蔑視し〈やつらは人間ではない〉と教えこむこと」、「実戦さながらの訓練を行うことで敵兵が視界に入った瞬間に考えるより先に発砲するよう条件づけること」、「『敵は悪であり殺されて当然の存在だったのだ』と自らの行動を認めて罪悪感から自分を守ること」だ。
 これらは単純なようだけれど、実際に世界の軍や警察組織で行われ、発砲率を四倍以上にまで押し上げた訓練法だ。

 さらに、この心理的安全装置を外すこの三つの訓練さながらの行為が今アメリカ社会では若者に向けて行われていると著者は指摘している。
 映画やテレビでの残虐描写はその度合いを増し、仲間内で楽しみながらそれらを観ることで人間に暴力を振るうことに慣らされてゆく。
 ゲームセンターのゲームでは画面内に現れる〈人型の標的〉を反射で撃ち倒していくことを学ぶ。
 さらに、近年の映画では『13 日の金曜日』のジェイソンや『羊たちの沈黙』のレクター博士のように「理由なく、あるいは自分への蔑視や冷遇を理由に他者を殺害する」アンチヒーローが登場し、「法に則らず自らの暴力で私刑を行う人物」が肯定され、若者はその人物を手本にするようになる。

 これはあくまでアメリカ人の著者が書いたもので、日本には当てはまらない部分も多い。が、他者に対して平然と「死ね」と言える、見も知らない人間を「カス」と嘲笑できる人々が増えているのは事実だ。その理由は何だろうか? と考えざるを得ない。

 映画やゲームが子供たちに悪影響を与える、なんて、何度耳にしても話半分にしか聞いていなかった。人間の理性はそこまで弱くはないと考えていた。が、懇切丁寧にされた軍の訓練法の解説を読んだ上で今の社会の状況をそれになぞらえられてしまうと、どうしても「人間の理性」をあてにする気にはならなくなってしまった。
 「理性」はそもそも生育の過程で育まれるものだし、生来備わっている理性を薄れさせる方法も確かに存在している。現実に、理性の破壊が進んでいると思わざるをえない事態はあちらこちらで起きている。

 「放置は助長につながる」というルソーの言葉を著者は本文中で引用している。「法の支配する社会から、暴力と用心棒と復讐の支配する社会」へとこのまま突き進まないために、殺人とは何か、殺人を可能にする心理は何かを知らなければいけないと思う。
On Killing
翻訳:安原 和見
初版:1998 年 7 月(旧題『「人殺し」の心理学』)
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2013.04.29