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『葉書でドナルド・エヴァンズに I』 平出 隆
 今年6月、鎌倉駅西口にある「たらば書房」という書店さんに初めて行った。店内に入ってひと目棚を見た瞬間、隅々まで張り巡らされた本への意識に圧倒されて、高揚感が抑えられなかった。
 書店の棚は書店員が作る。出版社別とか著者別とか定番の法則はあれど、何を仕入れどこに並べるか、どの本とどの本を同じ棚に入れるかは、その書店で働く人にすべて委ねられている。
 知識として知っていたこの事実が実際にはどういうことなのか、たらば書房さんで初めて体感した。どこで売られていても同じ「本」が、どう選ばれ、どう置かれるかでこうも違って見えるものかと感動した。

 そんな特別な初体験をさせてもらった日、もちろんどうしても、その特別さに釣り合う本が欲しかった。店内を入念に歩き回り、雑誌棚に入れられたこの一冊を見つけた。
 灰青色の布装幀、グラシン紙の帯、蝶(あるいは蛾)が美しく飛ぶ透明のケース。深い静寂をまとい、同時に抗いがたい魅力を放つこの一冊を、私はその日持ち帰った。

 著者である平出さんは1985年から1986年にかけてドナルド・エヴァンズの足跡を追ってアメリカを旅した。そしてその間、葉書でドナルド・エヴァンズに日記を書き続けた。この本はその葉書をまとめたものである。
 ドナルド・エヴァンズは1977年に31歳で亡くなったアメリカ生まれの画家だ。彼は架空の世界を思い描き、その世界で発行されている切手を描いた。自らが築いた架空の国々について、ドナルド・エヴァンズはこう語っているそうだ。

「そこでは、どんな飢饉も、大災害も起りません。ぼくの切手には将軍たち、戦闘場面、そして軍用機などは登場しません。この国々は清浄で、平穏、そして豊かなのです。」(本文より)

 2001年に作品社から上梓されたこの本は、20133月に《crystal cage》版として生まれ変わる。私が手にとったのはこの《crystal cage》版である。
 この版では一枚の葉書ごとに一枚の写真が付され、絵葉書を意識したつくりとなっている。奇数ページには葉書のオモテにあたる文面、その裏の偶数ページには葉書のウラにあたる写真といった具合に。

 積読の多い私は購入後すぐにはこの本を読まなかった。大抵の本は読み始めるまでに数ヶ月の時間がかかる。一年以上寝かせていることもざらだ。そんななか、この年の瀬が押し迫った時期に、「これは今年のうちに読んでおきたいな」とふと思い手にとった。
 私事になるけれど、私が生まれたのは1985123日である。この本で平出さんがドナルド・エヴァンズへ宛てた葉書には、書かれた年月日と場所が記されている。1985123日、平出さんはボストンにいて、ドナルド・エヴァンズに、留学中の中国人青年から中華料理を振る舞われた話をしている。
 この本を読み始めた時、平出さんがアメリカを旅しながらドナルド・エヴァンズに葉書を書いていたのが自分の生年だったとは知らなかった。気まぐれに「今年のうちに読んでおこう」と思い、読み進め、そしてとつぜん自分の生年月日を紙上に目にした。この驚き。
 私という個人がこの世に存在し始めた、しかし自我はまだなかった頃、平出隆という人は自身の敬愛するドナルド・エヴァンズという画家と濃密な時間を過ごしていた。28年の時を超えて、この事実を一冊の本を通して知る。この喜び。
 「知ることのできなかったはずのことを知る」。これは本の魅力の根幹を成すひとつだ。たったひとつの人生のなかで、無数の人生に出会うチャンス。その恵まれた幸運が本には満ちている。

 記録を読むだけなら本である必要はない。ネットを漁れば記録はいくらでも調べられるし、文章も読める。それでもひとが本を読むのは、紙や字体や写真や造本、その他、本をかたちづくるあらゆるものが、ただデータを得るだけでは満たされない満足感と幸福感につながるからだ。
 自分が生まれた時に書かれたものにたまたま出会い、たまたま28歳の誕生日直後にそれを読む。この偶然は、それがこの本によってもたらされたことによって、他の媒体で起こった時とは比べようもない幸福感を私にもたらした。それは一重にこの本のうつくしさに由来する。
 平出さんの文章の読みやすさ、端整さ。ドナルド・エヴァンズへの愛と敬意にあふれたその行動。ドナルド・エヴァンズが描いた架空の世界の切手と、そうやって生み出された世界そのもの。たらば書房さんで出会ってひと目で惹かれた装幀と、「テクストと造本との一体的な実現」という平出さんの持つコンセプト(この本は造本も平出さんによる)。
 本のうつくしさは、外装だけでも、内容だけでも、作ることができない。この本のすべてが、この本のうつくしさを担保している。

 この一冊がそなえた魅力のすべてが、単なる偶然をあざやかに彩り、忘れがたい恵まれた出会いに変えた。人と本の幸福な出会いを味わわせてもらった。
初版:20014月 作品社
≫ Amazon.co.jp(叢書crystal cage)
2013.12.29