1942年、パリに住んでいたユダヤ人の少女サラは、フランス政権によるユダヤ人一斉検挙《ヴェルディヴ事件》により自宅から連れ出される。とっさに弟を納戸に隠したサラは、収容所から収容所へと移送されながら、弟を思い続ける。
数十年の時が経ち、2009年。パリで働くジャーナリスト・ジュリアは、1942年フランスで起きたヴェルディヴ事件を取材するなかで、義父らの住んでいたアパートが、1942年に入手されていたことを知る。
1942年と2009年、サラとジュリア。ふたつのフランスとふたりの登場人物が軸になり、映画は進む。
この地上で、人の死んだことのない場所はない。だから人が死んだからという理由で、特定の場所を不吉がったり忌避したりするのはナンセンスだと思っていた。しかし、この映画を観ながら考えていたのは、「その死に自分の親族が関わっていたとしても同じように『特別なことではない』といえるのか」ということだった。
ジュリアは夫の家族を愛しているが、だからこそ、その穏やかで優しい彼らがどういう考えでもってサラたちの一家が連行された後のアパートに住んでいたのか、推測することができない。不安、不信感、ジャーナリストとしての使命感。ジュリアのなかで仕事とプライベートが渾然とする。何に突き動かされているのかも判然としないまま、ジュリアはサラの足跡をがむしゃらに追い続ける。
さらに、作中ではジュリアの妊娠が発覚する。高齢での出産にもジュリアは躊躇よりも喜びを抱いているが、彼女の夫・ベルトランは高齢で子を持つことに反対する。
ここからサラとベルトランの物事に対する態度の違いが明確に見えてくる。
サラが連行された直後のアパートに自分の祖父母らが住み始めたことを、「何十年も前のことだ、今更掘り返す必要なんてない、今の自分たちにはもう関係ない」と、自分の家族や心や生活を守るために割り切ることはひとつの方法なのだと思う。ベルトランが選択するのはこちらの考え方だ。ジュリアの高齢での出産に反対し、これ以上家族の過去を詮索するなとジュリアを止めようとする彼女の夫は、現実的で冷静な人なのだと思う。家族や生活を含めた自分自身の世界をまず真っ先に守ろうとする姿勢は、生きるために必要なものだ。
それを近視眼的だと言うこともできると思う。私自身のなかにも、そう言ってしまいたい気持ちもある。数年前なら、私はベルトランに反感を抱いていただろう。しかし、自分の足元を過去や他人のために譲り渡そうとするやり方を認めない人が確かに必要な時もあるのだ。
しかし、それでも、それだけでは世界は前へ進んで行けない。
過去を歴史と呼んで、記憶することを諦めて記録として遠ざけることは、過去のひとりひとりを数で数えて名前を知ろうとしないことは、人の尊厳を認めないことと繋がってしまう。自分の生活をないがしろにすることが正しい訳ではない。けれど、自分の身を守るために、少し遠い誰か、少し昔の誰かを自分とは全く無関係だと割り切るやり方は、誰もがお互いに距離を置き、自分も他人も傷つけないためと言いながら、自分の傷にも他人の傷にも無関心である未来を許してしまう。
そういう、お互いに無関心でいることでそれぞれが自分の身を守る世界は、人が人を救うことができない世界だ。たまたま傷つけられず生きてゆければ、そんな世界でもいいかもしれない。しかし、自分ひとりの力では到底立ち向かえない傷を負った時、その人は誰かに「あなたを大切に思う」と言ってもらわなければいけないのだ。
今生きている人間こそもっとも大切にすべきなのだという正論で、過去の人々に封をすることも生き方の一つなのだと思う。
けれど、ならばなぜ、人は記録を残そうとするのだろう。過去を振り返ろうとするのだろう。それは、「誰かを忘れない」ことで、「私を忘れないでくれ」という祈りを込めるためではないだろうか。
時間は経ち、歴史は積もり、そのなかで自分も自分以外の誰をも死んでいく。そういう成り立ちのなかで生きていく上で、時間や距離に隔てられた誰かに「あなたを知ろうとすることを諦めない」と約束することは、自分自身の立つ地面を支える力につながってくる。
ジュリアがサラの行方を追い求めるのは、自分のそういうやり方を信じてのことだ。そして、そのパートナーであるベルトランが、まず今の自分の生活に立脚して物事を考える人物であることは、象徴的であると言えると思う。
どちらの生き方も強さであり、もろさである。違う種類の生き方をしている人間同士が寄り添おうとする姿こそが、両輪となって世界を前へと推し進めていくのだと思う。
過去を知り切り捨てないこと、現在を見て維持しようとすること。この二つがせめぎあいながら譲り合いながら生きてゆく姿に、迎えるべき未来の姿を見たい。
数十年の時が経ち、2009年。パリで働くジャーナリスト・ジュリアは、1942年フランスで起きたヴェルディヴ事件を取材するなかで、義父らの住んでいたアパートが、1942年に入手されていたことを知る。
1942年と2009年、サラとジュリア。ふたつのフランスとふたりの登場人物が軸になり、映画は進む。
この地上で、人の死んだことのない場所はない。だから人が死んだからという理由で、特定の場所を不吉がったり忌避したりするのはナンセンスだと思っていた。しかし、この映画を観ながら考えていたのは、「その死に自分の親族が関わっていたとしても同じように『特別なことではない』といえるのか」ということだった。
ジュリアは夫の家族を愛しているが、だからこそ、その穏やかで優しい彼らがどういう考えでもってサラたちの一家が連行された後のアパートに住んでいたのか、推測することができない。不安、不信感、ジャーナリストとしての使命感。ジュリアのなかで仕事とプライベートが渾然とする。何に突き動かされているのかも判然としないまま、ジュリアはサラの足跡をがむしゃらに追い続ける。
さらに、作中ではジュリアの妊娠が発覚する。高齢での出産にもジュリアは躊躇よりも喜びを抱いているが、彼女の夫・ベルトランは高齢で子を持つことに反対する。
ここからサラとベルトランの物事に対する態度の違いが明確に見えてくる。
サラが連行された直後のアパートに自分の祖父母らが住み始めたことを、「何十年も前のことだ、今更掘り返す必要なんてない、今の自分たちにはもう関係ない」と、自分の家族や心や生活を守るために割り切ることはひとつの方法なのだと思う。ベルトランが選択するのはこちらの考え方だ。ジュリアの高齢での出産に反対し、これ以上家族の過去を詮索するなとジュリアを止めようとする彼女の夫は、現実的で冷静な人なのだと思う。家族や生活を含めた自分自身の世界をまず真っ先に守ろうとする姿勢は、生きるために必要なものだ。
それを近視眼的だと言うこともできると思う。私自身のなかにも、そう言ってしまいたい気持ちもある。数年前なら、私はベルトランに反感を抱いていただろう。しかし、自分の足元を過去や他人のために譲り渡そうとするやり方を認めない人が確かに必要な時もあるのだ。
しかし、それでも、それだけでは世界は前へ進んで行けない。
過去を歴史と呼んで、記憶することを諦めて記録として遠ざけることは、過去のひとりひとりを数で数えて名前を知ろうとしないことは、人の尊厳を認めないことと繋がってしまう。自分の生活をないがしろにすることが正しい訳ではない。けれど、自分の身を守るために、少し遠い誰か、少し昔の誰かを自分とは全く無関係だと割り切るやり方は、誰もがお互いに距離を置き、自分も他人も傷つけないためと言いながら、自分の傷にも他人の傷にも無関心である未来を許してしまう。
そういう、お互いに無関心でいることでそれぞれが自分の身を守る世界は、人が人を救うことができない世界だ。たまたま傷つけられず生きてゆければ、そんな世界でもいいかもしれない。しかし、自分ひとりの力では到底立ち向かえない傷を負った時、その人は誰かに「あなたを大切に思う」と言ってもらわなければいけないのだ。
今生きている人間こそもっとも大切にすべきなのだという正論で、過去の人々に封をすることも生き方の一つなのだと思う。
けれど、ならばなぜ、人は記録を残そうとするのだろう。過去を振り返ろうとするのだろう。それは、「誰かを忘れない」ことで、「私を忘れないでくれ」という祈りを込めるためではないだろうか。
時間は経ち、歴史は積もり、そのなかで自分も自分以外の誰をも死んでいく。そういう成り立ちのなかで生きていく上で、時間や距離に隔てられた誰かに「あなたを知ろうとすることを諦めない」と約束することは、自分自身の立つ地面を支える力につながってくる。
ジュリアがサラの行方を追い求めるのは、自分のそういうやり方を信じてのことだ。そして、そのパートナーであるベルトランが、まず今の自分の生活に立脚して物事を考える人物であることは、象徴的であると言えると思う。
どちらの生き方も強さであり、もろさである。違う種類の生き方をしている人間同士が寄り添おうとする姿こそが、両輪となって世界を前へと推し進めていくのだと思う。
過去を知り切り捨てないこと、現在を見て維持しようとすること。この二つがせめぎあいながら譲り合いながら生きてゆく姿に、迎えるべき未来の姿を見たい。
2010年 | フランス | 111分
原題:Elle s'appelait Sarah
監督:ジル・パケ=ブランネール
キャスト:クリスティン・スコット・トーマス(ジュリア)、メリュジーヌ・マヤンス(サラ)、フレデリック・ピエロ(ベルトラン)、エイダン・クイン(ウィリアム)
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