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『新少林寺/SHAOLIN』
 カンフー映画というのは、ダンス映画がダンスを、ミュージカル映画が歌と踊りを楽しむものであるように、アクションを楽しむための映画だと思っていた。登場人物やストーリーはお定まりのパターンにハメてさっさと片付けて、カンフーシーンに心血を注ぎアクションだけを進化させてゆくジャンルなのだと。
 だから私はカンフー映画にほとんどアンテナを張っていない。私の基本はストーリー重視で、さらに単なる好みの問題として、歌やダンスに比べて私はカンフーシーンの流麗さだけでは 2 時間を楽しめない。
 つまり、『新少林寺』はこのタイトルだけでまっさきに「観る映画リスト」から外す一作だった。劇場版ドラえもんやヒーロー戦隊映画と同列の扱いだ。それが、これまで観てきた 300 本あまりの映画のなかで並ぶもののない無二の一作になった。

 カンフー映画に対する造詣をまっさら持たない私は少林寺というのがいかなるものかを知らない。だからまずは、この映画で見た少林寺を書いておこうと思う。
 この映画で私が知った少林寺は、宗教というのとも違う、生に対する教えがただ静かに、体系化されることも知らないまま深く広く折り重なっているものだった。敬い、情けをかけ、一日を生きる。誰も害さず、誰にも侵されない。矛盾や対立そのものをすべて受け入れる度量と、過ちを正す鋼の意志が、混在し、両立する。

 そしてこの映画について言えば、人が生き、間違いを犯し、それを正す。ただ、そういうものだった。
 間違いは悲劇を生み、怪物を生み、けれど時間と人生に取り返しはつかない。だから男は我が身のすべてをかけてその代償を支払う。後悔のない人生はないけれど、後悔に埋もれたままで生まれるものもまたない。だから、後悔した時にひとは、重い選択をせねばならないのだろうなと思う。少林寺に慈悲を与えられた男はその決意をする。
 責任を取るということは、過去と引き替えに未来を差し出すということだ。かつての自分の愚かさに対して、男は自らの未来を賭けて正しさを導こうとする。探しているのはうまいやり方ではない。大団円でもない。ただ、自らの行ったことに対する責を引き受けるということだ。

 その先にある結末は、あまりに重い。残された場所には希望もあるが、決して打ち消されることのない悲しみもまた渦巻いている。光が影を生むように、正しさを取り戻した男の後には、また自らの過ちに向きあう男が残る。
 あるのは解決ではない。生に、ましてや時間に、終わりはないからだ。すべてのものは常に流れ続け、すがれるような完璧な結末は来ない。死すらも終わりにはならない。だからこの映画は、エンディングを迎えてなお観手の心中で動き続ける。

 映画というのは現実にフィルターをかけたものだと私は思う。たとえ実話を基にした作品だろうと、そこにあるのは「ストーリー」でしかない。それが、何故だろう、私はこの映画のエンドロールを見ながら、人に触れられた気がしていた。私の人生に、誰かの人生そのものが触れた感触が確かにした。
 『新少林寺』は一本の映画である。けれど、であると同時に、人生そのものでもあると思う。映画を観た時に感じるのとは違う、私の人生そのものの何かが変わった感じをまぎれもなく受けたからだ。
2011 年 香港 / 中国 131 分
原題:新少林寺
監督:ベニー・チャン
キャスト:アンディ・ラウ / ニコラス・ツェー / ファン・ビンビン / ジャッキー・チェン
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2011.12.20