2005 年に起きた、女子高校生が母親をタリウムで毒殺しようとした事件をモチーフにした映画である。「タリウム少女」を 2011 年に配置し、彼女の行動を追う。劇中には少女がアップしたというていで YouTube の再生画面が度々現れ、ナレーションとして登場する土屋監督の声は「タリウム少女」と会話を交わす。「物語なんかないよ」と繰り返す少女を映像に映しながら、監督が「物語が始まる」と言う。少女が「だから、始まんないって」とナレーションに噛みつく。
これを映画と呼んだものかわずかに迷える気もするけれど、すべての映像は映画であるとも言える以上、やっぱりこれも純粋に映画だ。
少女にとってヒトはヒトという動物であり、それ以上の存在ではない。ハムスターも金魚もアリもそれぞれただその生物であるように、ヒトもただヒトという生物であるというだけ。そして、少女は「観察」に執着する。すべてのものを観察する。タリウムを投与して髪が抜け落ち皮膚炎を起こす母も、また別の毒物を投与され精神疾患にかかるハムスターも、見つめ観察する対象だ。
少女はグロテスクだろうか。実の母に死の可能性を承知の上で毒物を投与するのは人非人の行いだろうか。
彼女は高校でひどいイジメを受けているが、彼女の「観察」行為は少女自身にまで及ぶ。イジメられる自分も観察の対象である。
これはイジメという現実から逃避するために自分を客体化しているに過ぎないんだろうか。心の奥深くで本当の彼女はひどく傷ついていて、そんな自分から逃げ出すために「観察するぞ」とうそぶいているんだろうか。
もしこの映画をそう観るなら、その人はとても健全な感覚の持ち主だと思う。が、それこそこの映画の不快さからの逃避に思えてならない。
少女はグロテスクだろうか。しかし、「観察」のために透明なカエルを作り出し「解剖の必要なく腫瘍を観察できるようになった」と喜び、さらなる体内の観察のため発光するカエルやウサギを生み出すのが現在の科学だ。これはグロテスクではないだろうか。
一方でヒト以外の生物にはいくらでも改変を与え、一方で人類の遺伝子操作には「倫理観」の一語でもって否を言う。
動物はいいがヒトはダメ。少女にはその線引きがわからない。「何が違うんですか?」と問う彼女に答える者はどこにもいない。ヒトがヒトを特別にするのは自身が自分にとって特別であることの延長でしかなく、自分自身さえ観察対象である彼女はその理屈では通らない。だから彼女はどこまで言っても世界一般と相容れない。
さて、いびつなのは少女だろうか。では、少女をいびつだと指差す世界の方はまともだろうか。
映画を観ての感想としては、「世界はいびつ、少女を指差す人々はいびつな世界における正常、少女はいびつな世界でまた別のいびつ」だった。少女を庇護するように、この映画にはこの世界を「いびつ」と感じさせるだけの描写が大量に導入されている。少女が登場しないシーンのほぼすべてがそうと言っていい。
少女はグロテスクだろうかと何度も言ったが、少なくとも少女はグロテスクではない。彼女については、ただそう育ってしまったというだけの話だ。そして彼女を育てたのはこの世界である。
この映画にグロテスクさがあるとしたら、それはこのいびつな世界を作り上げた人間というねじくれきったものがまだ生物であるという一点だけだと思う。
と、ここまで少女の感覚にそって感想を書いてみたが、たとえば少女は自分自身にタリウムを投与することはできない。体調がくずれては観察を続けることができないからとかそういう理屈もつけられるが、結局のところもちろんやっぱり彼女にとっても自分自身は特別で、自分がかわいいのだ。
そこが彼女の微笑ましいところであり、この映画が事前に期待していたほど痛々しくなかった理由でもある。彼女は映画の最後まで生きる方法を模索するが、そんなことをしなくても本当は生きられるのにと、生きているだけで生きられるのにと、幼い頃を懐かしむような気持ちで見つめてしまう。
少女と私はとてもよく似ている。私の場合はよく自分をヒトであると感じられなくなる。が、それでも私はヒトであるし、いびつになってしまった世界でいびつさが少しでも正されればいいと願いながら生きている。いびつでない、健やかな世界を見つけることもできる。
結局のところこれは少女の脳内だけで完結した映画であり、彼女はまだまだ自我から抜け出ることができない雛鳥のままなのだ。世界を自分以外の視点で見ることを知らない。
自分が同じようであった頃を懐かしく思い出しながら、その感覚が自分のなかに想起されてくるのを感じながら、少女の頭をなでたくなる気持ちでこの映画を観ていた。
ところで、科学的なものに執着する少女は「物語なんて ないよ。プログラムしか ないんだよ」とつぶやくが、言葉に執着する私は「でも、人間はプログラムが物語を求めるようになっているんだよねえ」とつぶやき返してしまう。
「物語は始まらない」と少女が強弁するこの映画を観て、人間は物語を汲み取らずにいられるだろうか。
これを映画と呼んだものかわずかに迷える気もするけれど、すべての映像は映画であるとも言える以上、やっぱりこれも純粋に映画だ。
少女にとってヒトはヒトという動物であり、それ以上の存在ではない。ハムスターも金魚もアリもそれぞれただその生物であるように、ヒトもただヒトという生物であるというだけ。そして、少女は「観察」に執着する。すべてのものを観察する。タリウムを投与して髪が抜け落ち皮膚炎を起こす母も、また別の毒物を投与され精神疾患にかかるハムスターも、見つめ観察する対象だ。
少女はグロテスクだろうか。実の母に死の可能性を承知の上で毒物を投与するのは人非人の行いだろうか。
彼女は高校でひどいイジメを受けているが、彼女の「観察」行為は少女自身にまで及ぶ。イジメられる自分も観察の対象である。
これはイジメという現実から逃避するために自分を客体化しているに過ぎないんだろうか。心の奥深くで本当の彼女はひどく傷ついていて、そんな自分から逃げ出すために「観察するぞ」とうそぶいているんだろうか。
もしこの映画をそう観るなら、その人はとても健全な感覚の持ち主だと思う。が、それこそこの映画の不快さからの逃避に思えてならない。
少女はグロテスクだろうか。しかし、「観察」のために透明なカエルを作り出し「解剖の必要なく腫瘍を観察できるようになった」と喜び、さらなる体内の観察のため発光するカエルやウサギを生み出すのが現在の科学だ。これはグロテスクではないだろうか。
一方でヒト以外の生物にはいくらでも改変を与え、一方で人類の遺伝子操作には「倫理観」の一語でもって否を言う。
動物はいいがヒトはダメ。少女にはその線引きがわからない。「何が違うんですか?」と問う彼女に答える者はどこにもいない。ヒトがヒトを特別にするのは自身が自分にとって特別であることの延長でしかなく、自分自身さえ観察対象である彼女はその理屈では通らない。だから彼女はどこまで言っても世界一般と相容れない。
さて、いびつなのは少女だろうか。では、少女をいびつだと指差す世界の方はまともだろうか。
映画を観ての感想としては、「世界はいびつ、少女を指差す人々はいびつな世界における正常、少女はいびつな世界でまた別のいびつ」だった。少女を庇護するように、この映画にはこの世界を「いびつ」と感じさせるだけの描写が大量に導入されている。少女が登場しないシーンのほぼすべてがそうと言っていい。
少女はグロテスクだろうかと何度も言ったが、少なくとも少女はグロテスクではない。彼女については、ただそう育ってしまったというだけの話だ。そして彼女を育てたのはこの世界である。
この映画にグロテスクさがあるとしたら、それはこのいびつな世界を作り上げた人間というねじくれきったものがまだ生物であるという一点だけだと思う。
と、ここまで少女の感覚にそって感想を書いてみたが、たとえば少女は自分自身にタリウムを投与することはできない。体調がくずれては観察を続けることができないからとかそういう理屈もつけられるが、結局のところもちろんやっぱり彼女にとっても自分自身は特別で、自分がかわいいのだ。
そこが彼女の微笑ましいところであり、この映画が事前に期待していたほど痛々しくなかった理由でもある。彼女は映画の最後まで生きる方法を模索するが、そんなことをしなくても本当は生きられるのにと、生きているだけで生きられるのにと、幼い頃を懐かしむような気持ちで見つめてしまう。
少女と私はとてもよく似ている。私の場合はよく自分をヒトであると感じられなくなる。が、それでも私はヒトであるし、いびつになってしまった世界でいびつさが少しでも正されればいいと願いながら生きている。いびつでない、健やかな世界を見つけることもできる。
結局のところこれは少女の脳内だけで完結した映画であり、彼女はまだまだ自我から抜け出ることができない雛鳥のままなのだ。世界を自分以外の視点で見ることを知らない。
自分が同じようであった頃を懐かしく思い出しながら、その感覚が自分のなかに想起されてくるのを感じながら、少女の頭をなでたくなる気持ちでこの映画を観ていた。
ところで、科学的なものに執着する少女は「物語なんて ないよ。プログラムしか ないんだよ」とつぶやくが、言葉に執着する私は「でも、人間はプログラムが物語を求めるようになっているんだよねえ」とつぶやき返してしまう。
「物語は始まらない」と少女が強弁するこの映画を観て、人間は物語を汲み取らずにいられるだろうか。
2013 年 | 日本 | 82 分
監督:土屋 豊
キャスト:倉持 由香、渡辺 真起子、古舘 寛治、Takahashi
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