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『タイタニック』
 ジェームズ・キャメロン監督の映画は『アバター』以外に観たことがなかった。『アバター』を観た時には憤ろしくて息が止まるかと思った。百年以上も未来の世界を描いていながら登場する人間たちの多くがあんなにも愚かであることに、この監督はどれだけ人類に絶望し、憎んでいるんだろうと思った。
 もちろんそうではない。ジェームズ・キャメロンというのは、映画作りにおいて人間を描くことではなく、迫力を持つ映像によって有意義な設定を土台に生真面目なストーリーを組み立てることを楽しむ監督なのだ。
 つまり、私のやる作品に対する価値の見出し方ではジェームズ・キャメロン監督の作品は楽しめない。

 今、『タイタニック』はタイタニック号沈没から100年ということで3Dにリメイクされてスクリーンで上映されている。それに合わせて2D版も公開されていたので、DVDではまず観ないだろうと思い自分にはっぱをかけてようよう映画館に足を運んだ。
 世間に知れ渡り過ぎて観ずにいるのも座りが悪い。観たのはそういう動機だった。
 肩の力を抜いて、なんの期待も身構えもなしに観たからだろう。自称ディープな映画好きが言うような駄作だとは思わなかった。

 ジェームズ・キャメロン監督の作る人間像はやはり好きではない。善人は一貫して善人で、悪人はどこまでも悪人だ。誰のどこにも人間味はない。監督の世界を作るための模造人間に過ぎない。

 それでも『アバター』のような耐え難い嫌悪感に襲われずに済んだのは、主人公のふたりが気抜けするほど平凡な人間であったからだろう。このふたりの恋だけでは決して映画は映画として成り立たない。それくらい、どこにもカタルシスの存在しない、恋の平均値を頭から爪先まで集めたようなふたりである。それがこの映画をかろうじて救っていると思う。
 監督の描きたいのはおそらくタイタニック沈没という事件の方である。そこにいる人間たちは事件を彩るための添え物に過ぎない。だからあれほど平面的な人物像で済むのだ。

 しかし、どんな作品にもそこにいる人間の奥を見ようとしてしまう私には、その平凡さが目にとまった。タイタニックに乗ってさえいなければ、なんの変哲もない人々であり、恋人同士だった。それが彼らの死をまざまざと生身のものとして感じさせる。
「死にたくない」という原始的な、けれど映画という物語の世界に入り込むとしばしば忘れてしまう感覚を、久しぶりに心臓で感じた。

 いつ何があるかわからない。今死んで、私はいくつの後悔をするだろうか。いくつの満足を思い出せるだろうか。どこにでもいるような彼ら二人をスクリーンに見ながら、そういうことをただシンプルに思っていた。
1997 年 | アメリカ | 189 分
原題:Titanic
監督:ジェームズ・キャメロン
キャスト:レオナルド・ディカプリオ、ケイト・ウィンスレット、ビリー・ゼイン、キャシー・ベイツ、フランシス・フィッシャー、ビル・パクストン、デビッド・ワーナー、グロリア・スチュアート、スージー・エイミス
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2012.04.11