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『笑う月』 安部 公房
 2012年に紀伊國屋書店で開催された「ほんのまくらフェア」。本の書き出しを抜き書きした書皮をかけ、タイトルや著者名が見えないようにパッキングして、「本の書き出しだけで本を選ぼう」という企画。とても面白くて、気になった書き出しの本を何冊も買った。『笑う月』は、ほんのまくらフェアで買いたいと思い、しかし在庫切れになっていて買えなかった一冊。書き出しは「眠られぬ夜のために、とっておきの睡眠誘導術を伝授するとしよう。」。
 フェア終了後、紀伊國屋書店さんがフェアで取り上げた本の全タイトルを公開してくれ、その後購入することができた。

 『笑う月』は随筆集だ。これまで、安部公房の小説は読んだことがない。小説家の本に触れるにあたって、小説より先に随筆を読んでしまうことに一抹の後ろめたさを感じながら、面白く読んだ。
 私はよく夢を見るし、よく眠る方だと思う。夢見は大概悪く、奇妙な夢も多い。また、一時期は毎晩夜更けにふと目が覚め、安眠が欲しいと思い続けていた。「夢と眠り」はとても関心の深いテーマだ。
 17篇の随筆は、安部公房の考える睡眠論や夢論、また見た夢の描写である。そのテーマは広がりがあり、子供時代の古い記憶や空想と現実の境界にまで話は及ぶ。
 カメラに関する論考も興味深い。

(前略)現実的にカメラを考えることの出来る者なら、まずカメラ好きにはならないだろう。写真を撮ってみたいと思うことと、カメラ好きになることとには、微妙で、しかも越えがたい溝があるのだ。プロのカメラマンとの間には、さらに深い溝がある。小説を書きたいと思ったからといって、文房具マニヤになるとは限らないようなものだ。
「アリスのカメラ」 p. 73

(前略)ゴミ捨て場と同じく、それら廃物や廃人たちが、恐ろしい声で叫ぶのを聞いたせいなのだ。それ以上の説明はできない。とにかく音叉のように、ぼくの内部で何かが共鳴しはじめ、身の毛のよだつ思いで、しかも強くひきつけられてしまうのだ。
 ぼくはその叫びを恐れながら、同時に聞えなくなることを恐れているような気もする。もしあの叫びが聞えなくなったら、シャッターを押したいという衝動も失われてしまいそうなのだ。(中略)小説も舞台も、けっきょくはゴミ捨て場から聞えてくる叫びを、かわって叫ぶ作業のように思われる。
「シャボン玉の皮」 pp. 83-84

 また、創作という行為そのものに対する考えと自身の創作家性に対する不安には深く共感する。

(前略)創造の秘密などという、もったいぶった言い方は嫌いだが、書くという作業が作者の意識的操作を超えたものであることも否定はできない。知らぬ間に種子を拾って、自分の内部に植え込み、無意識のうちに肥料をあたえ、水をやり、予期しなかった発芽にあわてて農夫の仕事へとわれとわが身を駆り立てる。
 だから不安なのだ。明確に、発芽の状況を見きわめるまでは、はたして自分が今も作家であるのかどうか、どうしても確信をもつことが出来ない。ただ、知らぬ間にとり込んだかも知れない種子に期待して、その時がくるまで待ちつづけるしかないのである。
「発想の種子」 p. 38

 夢は操縦不可能なものであり、だからこそおどろくほど直截的であったり、逆に自分自身にとってもまったく理解できない不可解さを持っていたりする。創作家にとって夢とは、自身の平凡さを見せつけられる場であり、同時に自身でさえ気づいていなかった作品の萌芽を目前に示してくれる恩恵でもある。表題作で安部公房は

(前略)いくらエンジンを全開にしていても、地図に出ているコースを走っている間は、まだ駄目なのである。いつかコースを外れ、盲目にちかい周辺飛行を経過してからでないと、納得のいく目的地(作品)には辿り着けないのだ。
 夢は意識されない補助エンジンなのかもしれない。すくなくも意識下で書きつづっている創作ノートなのだろう。
「笑う月」 pp. 21-22

と語っている。夢の恩恵に浴した経験は、きっと多くの創作家にあるはずだ。そんな経験を持つ人にとって、また単に自らの見る夢に深い関心を持つ人にとって、ひとりの作家の見た夢とその世界を垣間見ることができるのは、とても興味深く面白い体験だと思う。
 何篇か治められた安部公房の見た夢の掌篇のうち、「公然の秘密」という一篇が放つイメージが抜群に完成度高く、心の底にすとんと落ちてきて胸に残る。多くの人とこのイメージを共有してみたい。
初版:197511月 新潮社
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2014.01.05