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『夜の果てまで』 盛田 隆二
 文庫版に解説を添えた佐藤正午さんの『ジャンプ』を読んだことがある。『夜の果てまで』と同じく失踪小説だった。
 同じテーマの小説を書いた小説家が自分のことを「普通の小説家」と呼び、盛田隆二を「自分にしかこうは書けないような書き方を(たぶん)常に模索している」作家だと言う。リアリズムとは盛田隆二の小説のためにある言葉だと言う。
 同じ世界で生きる人間が他者をこう認めるというのがどういう意味合いを持つか、理解できないひとは少ないだろう。自分の無力を認めてでも讃えたい作品というのは案外と会うことの難しいものである。

 就職活動を目前にした三月、二年間付き合った恋人にふられた俊介は、偶然のめぐり合わせで一回り年上の人妻、裕里子と出会う。惹かれ、触れ、触れれば離れられず、ふたりは家族と、家庭と、大学と仕事を手放して、ただふたりだけで小さくじっと繋がり合う。
 四つの章で書かれるふたりの四季を通して、彼らの互いへの感情は胸が切なさを覚えるほど変わらない。どこまでも、それこそ朝という終着に着けない夜の果てまでも、彼らは互いの目の前にいるそのひとに自分を捧げ続ける。くちづけと、抱擁と、交わりで、ふたりはふたりの世界を構築する。嘘と誤魔化しと裏切りで周囲を固めて、唯一ふたりの間だけが真摯な真実である。

 佐藤正午さんが『夜の果てまで』をリアリズムの小説だと言うのは、この彼らのことを、彼らを取り巻く環境、つまりは周囲に人々まで含めて、過不足なく逐一を書き連ねてゆくからだ。
 これは構成の妙にうなったり驚きに息を飲んだり与えられた衝撃にひるんだりする小説ではない。物語は一から始まり、何もかもが話され、描き出され、十で終わる。この小説にはどこにも刃先がない。だから読者の心に傷はつかない。しかし明確な形と重みがある。柔らかいソファに重い荷物を置いた後のように、いつのまにかその形ははっきりと身を残している。読後、そのことに気づく。
初版:1999 年 4 月 角川書店(単行本時タイトル『湾岸ラプソディ』)
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2012.04.27