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『異端の数ゼロ 数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念』 チャールズ・サイフェ
異端の数ゼロ
原題:Zero
翻訳:林 大
初版:2003 年 10 月 早川書房
>> Amazon.co.jp(ハヤカワ文庫)

 古代ギリシア哲学から現代物理学まで、ゼロはありとあらゆる場面に出没しては人々を惑わせている。現代に生きる私たちにとって「 1 の前にはゼロが来る」というのは当然のことと思えるけれど、それでも著者はこう語って読者にゼロの特異性を気づかせる。
「電話やコンピュータのキーボードを見ればいい。0 は本来あるべき 1 の前ではなく 9 のあとに来ている。」
 ゼロは確かにひとつの数に過ぎないけれど、同時に 3 や 7 といった数と変わらぬ平凡な数のひとつだとも言えないのだ。

 この本ではまず、古代文明におけて芽生えたゼロの起源から、ピュタゴラスやアリストテレスがどれほどゼロを忌避し西洋文化がなぜゼロを排除したのか、そして東洋文明はなぜゼロを受け入れたのかというゼロをめぐる歴史が語られる。
 さらに、ゼロという数が数学や化学・物理学の分野でいかにやっかいな存在かがいくつもの具体例をもって示される。微積分や惑星の運行、さらには宇宙の始まりと終わりにまつわる問題まで、ゼロをいかにうまく処理するかが鍵を握っている。

 ゼロがなぜこれほどまでに面倒な存在なのか。著者は第 0 章で言っている。
「ゼロが強力なのは、無限と双子の兄弟だからだ。二つは対等にして正反対、陰と陽である。」
 これがどういう意味なのかは、この本のなかでたっぷりと語られている。“ゼロ”はすべての収拾をつかなくさせる“無限”を引き起こす存在なのだ。

 私はこの本の次にサイモン・シンの『フェルマーの最終定理』を読んだのだけど、こちらの方が数式や専門の概念が多くて、特に後半は少し理解が難しいかもしれない(少なくとも物理学の素養のない私は同じところを繰り返し読み返すことになった)。
 しかし後半を多少読み飛ばしたとしても、前半のゼロがいかにして生まれ、ギリシア哲学を、ひいてはキリスト教哲学をどれほどさんざんに振り回したかという部分だけだって充分に読む価値があると思う。
 少しばかり皮肉げで大仰な語り口に疲れることもあるけれど、数の魅力を愛するひとにとってとても面白い本だと思う。
2011.04.04