メモ
2008.12.13
 今日は沙々雪の3周年です。
 メモに書きためていた感想をきちんと整理して各本の感想にアクセスしやすいサイトにしようと長いこと考え続けていて、ようやくかたちにできました。とはいえ過去のメモをさかのぼってみると実はきちんとした感想を書いていることが少なく、当初考えていたほど感想の本数を多くできずに残念です。
 これからこまめに感想を書くことにして、沙々雪に来てくださる方のお役に立てるような充実したサイトにできたらいいなあと考えています。

 と、言ったそばから感想を書いていない本が3冊溜まっています。今日はもう時間がとれないので、明日きちんと書こうと思います。

 今は、おすすめいただいたカート・ヴォネガットの「国のない男」を読んでいます。
 読みやすいしシンプルなことばで書かれているけれど、言っていることはとても深い問題で、脳みそをフル回転させてヴォネガットの言うことを飲み込んでいます。とても楽しい読書になっています。
2008.12.08
 5日に読み終わっていた「つむじ風食堂の夜」、とても素敵な本でした。

 語り手は、月舟町の月舟アパートメントに住む「雨降りの先生」。
 <本当に美し>い皿で料理が出される、先生行きつけのつむじ風食堂。食堂の常連や月舟町で暮らす面々との、やさしく懐かしくぬくもりの宿った日々の物語。

 こことはちがうどこかで送られている清々しくきらめく日常をそっとのぞかせてもらったような、なんとも心地いい読書だった。小さな子どもがキラキラと光る石をてのひらにつつんで飽きずにみつめるような純粋さと楽しさで、「雨降りの先生」の語るさまざまなささやかな出来事をそっと脇から見させてもらった気分。
 8つの短編で構成されているけれど特別どの1編が好きということはなく、すべてをひっくるめて、先生の語るこの物語が好きだなと思う。

 人間なのだから、人とささいな諍いを起こしたり、真剣に悩んだりすることだってある。けれどそれと同じように、生きているのだから、ふと顔がほころぶようなこともある。たまには、奇跡だって起こる。
 かたちこそ違えど本質的には誰の上にでも起こり得るようなそんな日々のあれこれが、少し不器用な語り口でゆったりと綴られている。
 詳しいあらすじは語りたくない。ぜひ、先生の語りでこの物語に触れてほしい。一文一文を楽しみながら、先生の周りにいる人々や彼らをとりまいて起こった出来事を知っていく。きっと、とても幸せな体験ができる。

 なんとなく、降るように星がきらめく冬の夜に開きたくなる本だなと思う。心がすり切れそうになる読書も好きだけれど、そんなストーリーに疲れてしまったときには、心にぬくもりが生まれるようなこんな本が読みたくなる。

 作者の吉田篤弘さんはクラフト・エヴィング商會の物語作家とのこと。クラフト・エヴィング商會の名前だけはずっと知っていたけれど、かかわるものを読んだのはこれが初めて(のはず)。
 クラフト・エヴィング商會に思い入れはないけれど、吉田さんの小説はぜひ他にも読んでみたい。
2008.12.05
 「国のない男」をおすすめいただきありがとうございました。
 書店で表紙が気になっていた本でもあり、ヴォネガットはyom yomで爆笑問題の太田さんが好きな作家のひとりとして挙げているのを見ていつか読もうと思っていた作家でもあり、とても楽しみです。
 ウェブショップで購入したので、到着次第読もうと思います。

 今日読了した「つむじ風食堂の夜」は10月に書店で平積みされているのを見つけて直感的に「きっといい本だ!」と思い衝動買いしたものです。当たりでした。
 土日は時間がとれないかもしれないので、感想はちょっと先になりそうです。とてもいい本でした。

 今は、「指揮官たちの特攻」という本を読んでいます。
2008.12.04
 「チェーン・ポイズン」を読了しました。

 誰の気にもとめられることのない個性を持たない自分の生に倦み、死に惹かれている女性。そんな彼女の前に、一年後に眠るように楽になれる手段を差し上げましょうという存在が現れた。
 そして一年後、ひとりの週刊誌記者が毒物によって自殺した女性の事件を追っていた――。
 ふたつの時間軸で進む、生と死にまつわるストーリー。

 本多さんの小説には、誰もが自分のうちに持っている深く暗い穴が書かれているといつも感じる。それは自分自身の内側に存在する、他者に対する残酷さだ。それをまざまざと見せつけられて、人間というものへの恐怖に慄然とし、むなしさに打ちのめされる。
 人は人を傷つける。そしてその世界は変わらない。その事実がはっきりと示される。

 けれど、世界ということばはもうひとつの解釈を持っている。
 ひとりではどうにも動かしようがない周囲すべてという以外に、目の前の自分の手の届く場所だけを世界と呼ぶこともできる。
 それは小さな世界だ。自分にできることだけをしても大きな意味での世界を変えることはできない。人は他人を傷つけるし、嗜虐心や利己心が消えてなくなることもない。
 それでも、声を嗄らして叫び続けることで自分の大切な誰かくらいならば守ることができるかもしれない。自分をとりまくすべてという意味での世界は変わらなくても、自分にだけ見える世界の色は塗りかえることができるかもしれない。
 人は救われるとか努力はむくわれるとか、そういう大仰な希望じゃない。人によってはそんなものは希望じゃないと鼻で笑うかもしれないものだ。自分ひとりが一歩誰かに踏み込む勇気を持つことでその誰かに近づけるかもしれないという、近づいた距離が自分を救うかもしれないという、ただそれだけのささやかな願いだ。

 生に倦み一年後の死ぬ日だけを支えにして日々をやり過ごす女性と、自分の意志で毒薬自殺を追う週刊誌記者。対照的なふたりだ。記者にくらべて女性の姿はあまりに無気力で、痛ましくすらある。
 けれどストーリーが半分を過ぎるころ、ふたりの立ち位置は変わっている。自分の死への憧憬に疑問が湧き出す女性と、他人との隔たりに臆病な自分に直面する記者。どちらの生が輝きを放っているかという問いには、たぶん誰でもが同じ答えを持つんじゃないかと思う。

 すべての人が救われるという話ではない。ただ、救いのない結末のあとにでも続きは来るし、救いを生み出そうと自分があがくことはできるという物語だ。その選択はすべて自分の手のなかにある。
 どんな生を選ぶかは、自分がどう世界を見るかは、人がひとりで決めることができるものだ。
2008.12.01
 おすすめいただいていた「愛の生活・森のメリュジーヌ」を読了しました。おすすめ、ありがとうございました。

 収録された十篇の小説のいずれにも《書く》という行為が濃密にただよっていて、えがかれている世界に体ごと入りこむように、あるいは体のなかにすべてを染みこませるようにして読んでいた。

 全編読了したうえでもっとも印象深かったのは「兎」。父子は毎月一日と十五日に、飼っている兎を絞めて夕食にする。
 残虐な行為や人の狂気がはっきりと描写されているのに、そこに嫌悪感をいだくという正常な判断を持てる余裕がないほど、金井さんによって示される世界は独自の濃密な観点で埋め尽くされている。
 彼女の父への愛情はゆがんでいるのだろうし異常なのだろう。けれど、それでも愛情であることに変わりないのだ。異常なものは限られた世界でしか存在できないけれど、だからこそその強さは行くあても捌け口もないままに、果てしなくただ煮詰まっていくのだと思う。

 「兎」にかぎらず、気分の悪くなるような描写は多い。なのに全編が不思議な透明さをたたえている。
 内容をうまく思い出せない夢のように、とりとめなくリアリティもない。ストーリーの軸は横滑りし続けて骨格を持たない。けれど読み終えたあと(目が覚めたとき)確かに、自分の内側でなにかが動いたという感触が残っている。
 解説の冒頭におもしろい考察がされているけれど、金井さんの書くものにはたしかに愛が濃厚にただよっている。ただ、その対象はいつでも判然としていない。だから愛はただよい続けるしかなく、営みや生産といった健全さを持てない。たとえ始まりには純粋だったとしても、あてどなくさまよい続けるなかで愛はなお純粋さを保てるものだろうか?

 最後に収録された「プラトン的恋愛」中の一文、「主人公の前から姿を消してしまう不在の《彼》もしくは《彼女》とは、」――というくだりを読んだ瞬間に、この本をいつかもう一度読みなおさなければと思った。
 自分の内側で動くなにかは、たぶん読むたびに違うものなのだろうという気がしている。