詩的な言葉選びで書かれる、夜を飛ぶ郵便飛行機。闇が小山ひとつ、樹木の一本を強大な障害物に変える。
その闇へ、操縦士たちを放つ支配人リヴィエール。獅子の恐ろしさを持って、従業員皆に一丸となって働くことを全うさせる。正しさも間違いもなく、自らの持つ世界を強固に突き進んでゆく。考えながら、しかし立ち止まることは一度としてない。
せっかくだから、「屠殺」という行為に対する自分の考えをちょっとだけ書いておこう。
この本では「(動物を過度に擬人化して)『かわいそう』と思う気持ちから差別感情が生まれている。確かに殺される動物は『かわいそう』だけど、それが屠殺を仕事にするひとを差別していい理由にはならない」という論が出てくる。
私はそもそも食べられる動物を「かわいそう」だと思ったことがない。あるのは感謝と謝罪の感覚だ。食べさせてもらうよ、ありがとう、命をうばってごめんね、でもそうしないと生きていけないの。
雑食動物が他の動物を食べるのは当たり前のことで、そこに感情が生まれる理由はないと思う。けれど人間は食べるための動物を自らの手で育てるから、そこには責任が生まれる。命としてきちんと育て、食べるために殺す時にはできるだけ負担をかけないことが、その責任を果たす方法だと思う。動物は人間に食べられるために生きているわけではないのに、人間は食べるために動物を育てる。その齟齬がこの責任を生む。
シャルダンという静物画をよく描いた画家の美術展に行った時、狩りの獲物として得た野兎の絵について他の観客が「かわいそう」「エグい」という感想をもらすのが聞こえた。狩りの獲物は、狩っただけでその後廃棄したというなら別だけれどただの死骸ではなく食料である。野菜や魚と変わらない。グロテスクだというなら、さばいた後の赤みの肉の一切れの方が中身をさらけ出していてまだしもグロテスクだと私には感じられる。しかし、そういった絵の前で「エグい」という声は聞こえなかった。
狩りで得た獲物を「エグい」と言うのは、土のついたまま売られている野菜を「汚い」と呼ぶのと同じような、「食」という生命の根幹にかかわる行いそのものへのねじれを感じさせる物言いだ。
また、「食」とは離れるが、私は革製品を愛用している。鞄、財布、定期入れ、ブックカバー、ジャケットが革製品だ。革もまた動物の命を利用したものである。革製品を使い始めた時は単純に「丈夫で手触りが良い」という理由で選んだのだけど、長く使ううち、ふとした時に「これは死んだ動物から作られたものなのだ」ということを思い出してぞっとするという経験を何度かした。「ぞっとする」というのをどういう単語で言い表せばいいのかまだわからないでいるのだけれど、まぎれもないおぞ気が背中を走るのだ。それは死骸を利用するという行為に対して起こっている感覚だ。
だからこそ、使い始めた時にはなかった覚悟が私のなかには今生まれている。もうどうやっても使えなくなるところまで、私は今持っている革製品を使い続ける。使い切る、と言った方が正しいかもしれない。死蔵しないし、廃棄もしない。それは生きていた皮を加工して革にした私たち人間の責任だと思うからだ。できる限り長く使い続け、決して無駄にしない。
同じように、私は毛皮製品を使わない。ロシアやアラスカのような極寒地では毛皮なしに生きてゆくことは出来ないかもしれないけれど、関東に居て毛皮なしでは凍え死ぬというようなことはまずないはずだ。装飾品として毛皮を用いることは私には不要に思えてならない。
「屠殺」は「殺す」という言葉がネガティブなイメージだから使わないと言いながら、英題には虐殺の意味合いがある(と本文中でアメリカ人女性が言っている)「slaughter」を使った著者の意図は、どこにあるんだろう?
「屠畜」と「動物愛護」を対極だと考えているらしいあたり、著者は「動物を大切にする」という考えをすごく狭く考えているんだろうか。
繁殖用であった豚が屠畜される場面で、「たくさん出産して働いた豚」という言葉が出てくる。なるほど、著者は動物を人間の労働物だと思っているんだな、と納得する。私と感覚がこんなにも違う理由がちょっと見えた。