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『わたしを離さないで』
 無垢というのは称賛される。なぜか。それを持ち得る人間は少ないからだ。生きていれば必ず悪意にさらされる。嘘も裏切りもとめどなく与えられる。狡猾さを得ずに生きてゆけるほど世界は秩序だって正しくはない。疑うこと、裏を読むこと、根拠なく信用しないことは、他者に侵略されず生きてゆくために最低限必要なことだ。それは自己防衛であり、誰にも責められるべきものではない。もちろん自分自身からでさえ。他人や社会の構造は常に堂々と疑うべきだ。
 だから、自身では持ち続け得なかったものだから、人々は誰かの無垢を見た時それをたたえる。
 しかしその反応は、その無垢さが幾多の困難を乗り越えた上で生まれたものである時、その無垢の持ち主が疑いにも不信にも深くまみれた末にようやくたどり着いたものである時にだけ与えられるものだ。無知による無垢は愚かさでしかない。

 主人公キャシー、友人のルース、トミーの三人は、外界から隔絶された寄宿学校ヘールシャムで育つ。生活の隅々まで教師の目が行き届き、生徒たちには健康を害さないこと、敷地からは絶対に出ないことを課せられて、18 歳までの年月をとにかく何もかも決められたままに育ってゆく。
 「あなたたちは自分自身のことを明確に説明されていない。説明はあったけれど、きちんと理解されていない」というのは、ヘールシャムでキャシーたちを教えた教師のひとりが言った言葉だ。ヘールシャムには教育があるが、それは生徒自身には利さない。彼ら以外のために用意された、制限と矯正が多分にかけられたものでしかない。
 ヘールシャムの生徒たちは故意に無知の立場に置かれている。徹底的に。籠のなかの鳥という言葉が真実よく似合う。

 しかし、それでも彼らは恋をする。慈愛深いキャシー、優しく、けれど少々問題児であるトミー、キャシーの良き友人であり、しかし自分の不安定さをコントロールし切れないルース。ヘールシャムの同学年で、ヘールシャムを 18 歳で出た後も絆の続いた三人は、複雑な線でつながり合い、手を取り合い、離れ、また出会う。旧友、という言葉では足りない、特異なつながりがそこにはある。
 三人の関係は、愛とも言えるだろうし、友情でもあるだろう。30 年に近い時間を、近づき、傷つけ、離れ、それでも最後にはお互いの救いを願いあった関係は、感動的とすら言える美しさをそなえているだろう。

 しかしそれは彼らの無知ゆえなることを忘れてはならない。この映画では決して語られない、彼らを見る外からの視線を忘れてはならない。ヘールシャムという閉じた世界で育った彼らは、ヘールシャムの柵の外に暮らす「普通」の人々にどう見えていただろう? 人々に、彼らのこの姿はどう映るだろう?
 その視点は一瞬たりとも観客の頭から出てゆかない。それがために、彼らの美しさはどうしようもなく脆く弱く瓦解する。
 無知なまま愛を語り、友情を信じる彼らを、人々は一体どう見るだろうか。彼らの愛や友情は本当に「愛」や「友情」であったかが、この映画の解けないテーマでもある。

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原作小説:『わたしを離さないで』 カズオ・イシグロ

2010 年 | イギリス・アメリカ | 105 分
原題:Never Let Me Go
監督:マーク・ロマネク
キャスト:キャリー・マリガン、アンドリュー・ガーフィールド、キーラ・ナイトレイ、シャーロット・ランプリング、サリー・ホーキンス
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2012.12.05