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『愛の試み』 福永 武彦
愛の試み
初版:1956 年 6 月 河出書房
>> Amazon.co.jp(新潮文庫)

 愛にまつわる本というと『愛するということ』(エーリッヒ・フロム)が真っ先に浮かんでくる。
 『愛するということ』が「自分自身で自らの孤独を背負える人間でなければひとを愛することはできない」と説いたのに対し、『愛の試み』では「恐れることなく自らの孤独を見つめる人間に対して実際に愛がどう働きかけるか」を書いている。
 『愛するということ』の時と同じく、おおむね「まったくその通りだ」と頷きながら読んだ。

 ひとは誰もがそれぞれに孤独を持って生きている。しかも、その孤独は生涯埋めることができないものだ。そんな、自身の内にある孤独を恐れず自覚することで、ひとは他者のなかにある孤独の存在もまた理解できるようになる(逆に言うと自らの孤独に向き合えない人間は相手の孤独を認めることもできない。ひいては愛することもできない)。そしてその相手の持つ孤独を癒したい思い、自らを相手の孤独に投げ打つことが「愛」だ。
 自らの孤独を恐れて相手の存在や相手から与えられる愛情で孤独を埋めようとする行為は愛ではないと、著者は端的に指摘する。こういう恋愛をしているひとにとっては、耳の痛い話だろう。やみくもに自らを差し出すことも、寂しいからと愛情を願うことも、愛とはまったく違う行為なのだ。

 数ページのエッセイから成り、所々で直前のエッセイのテーマにまつわる掌編小説が載っている。
 愛の理論を説いているというよりも、福永武彦というひとりの人間が自らの持っている愛という観念について真摯に、忠実に、言葉を正しく取捨選択して語っているという印象だった。
 わかりやすく語るぶん情熱や葛藤といった愛における激しい想いに関する話でも描写はごくあっさりとしたものだったけれど、それは理性的に愛を語ろうという著者の意識の表れのように感じられる。自分の見て、感じて、育ててきた愛というものについての考えに対して、一点の曇りなく誠実であろうとしているように見えた。

 恋や愛に迷った時には、存分に自身に向きあって悩むのはもちろん、ひとつの指針としてこの本を開いてみるのも良いと思う。
 差し挟まれる掌編小説について、これは『草の花』を読んだ時にも感じたことだけど、私は福永武彦の文章と相性がいいな、と思う。書かれていることや登場人物の言動にイライラさせられることも多いのに、読んでいて感覚の深いところで居心地のよさを覚える。
 しかし、時代がら仕方がないのはもちろんわかっているけれど、同性愛に対して否定的(存在に対して否定的なのではなく、存在そのものを否定している)のは、目についた。
2011.04.29