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『ブラック・スワン』
2010 年 アメリカ 108 分
原題:Black Swan
監督:ダーレン・アロノフスキー
キャスト:ナタリー・ポートマン / バンサン・カッセル / ミラ・クニス / バーバラ・ハーシー / ウィノナ・ライダー
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 プリマを目指すニナは『白鳥の湖』の主役に抜擢される。『白鳥の湖』では純真な白鳥と蠱惑的な黒鳥の二役をこなさなければならないが、生真面目なニナは自分とは正反対の役柄である黒鳥を表現できず苦悩する。

 ニナは抑圧されて育ってきている。怯えて縮こまり、臆病に震えながら生きてきた。我を出すこと、反抗すること、自らの意思でふるまうことができない。自制を払って型を破るということが決定的にできない性格だ。
 そんな彼女にとって、男を誘惑する官能さと奔放性、白鳥をあざ笑い陥れる無垢な悪意を持つ黒鳥は、自分が今嵌っている型を完璧に壊すことができなければ絶対にこなせない役だ。型に嵌るというのは、退屈さであると同時に安全な殻に包まれることでもある。
 主役を踊りたいという強迫観念的ですらある願いとこれまでずっと抑えて生きてきた自我を解放する(つまりは自分を守る殻を壊す)という恐れの間で、ニナは次第にその心を病んでいく。

 母、黒鳥の要素をすべて併せ持った新人ダンサーのリリー、ニナに執拗に「自分を解き放て」と迫る利己的な監督のトマス。あらゆる要素がニナを追い詰める。
 おそらく、この三者の誰がもっとも印象に残るかは、観客によって変わるんじゃないだろうか。その人がこれまで何に圧力を感じて生きてきたかがそこに現れる気がする。私は、危ういバランスの上で懸命に娘を愛そうとする母親の存在が割れたガラスの破片のように胸に刺さって来た。

 『セイジャの式日』の感想で私は
「芸術家というのは自分の狂気を食い物にして生きてゆく種類の生きものだと思っている。(中略)創作のために現実を喜んで捧げる狂気が芸術を支える。」
 と言った。
 芸術家はその身に狂気を抱いていなければならない。同時に、決して狂気に自分を喰わせてはいけない。拮抗し、飲まれかけては押し戻し、そういうことを繰り返して育ってゆくものだと思う。
 なぜなら、狂気に飲まれたらひとは生きてはゆけないからだ。芸術家というのは芸術家である以前に人間という生き物であり、命を失ったらなにひとつ生み出すことはできない。作品のために狂気に我が身を捧げることは三流の芸術家がすることだと私は思う。そしてニナは、自らの狂気に抗いもせず飲まれて行った。
 狂ってでも役を求める姿を「これぞ芸術家」とする見方もあるだろうと思う。けれど少なくとも私には、ニナは最低で醜悪な三流のバレリーナにしか見えなかった。

 映画は、そのニナの内面世界だけを映して進む。不安定に触れ動く映像や、現実なのかニナの見ている夢なのかが判然としない数々の事象。母親は威圧的に、リリーは悪意を持って、トマスは魅惑的にそれぞれ見えるけれど、それは彼らがそれぞれ「ニナにとってそういう人物である」というだけで決して本人たちの本質が観客に見せられているわけではない。
 見えるものがニナの意識という狭い世界にだけ限定されていることで可能になる演出があちこちに散りばめられ、作品の世界に、狂いゆくニナの意識に、否応なく呑み込まれてゆく。
 まれに見る完璧さをそなえた映画だと思う。緻密で、計算し尽くされ、欲望も情熱も醜悪さも混沌として存在している。私はニナを嫌悪しながら観て、そのせいでこの作品自体も好きだとは言いがたい。けれど、絶対に見ないふりはできない質量を持った見所の多い映画だと思う。
2011.05.25