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『セイジャの式日』 柴村 仁
セイジャの式日
初版:2010 年 4 月 メディアワークス文庫
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 彫刻家の手伝いに駆り出され訪れた山中のアトリエで、柏尾は同じ美大仲間たちと共に奇妙な事件に直面した。『プシュケの涙』、『ハイドラの告白』に続く、シリーズ第三作にして最終巻。

 『プシュケの涙』の思い入れがあるからか、私には由良宛よりも由良彼方の方が好もしい。そういう点で、『ハイドラの告白』よりも『セイジャの式日』の方が心地良い本だった。『プシュケの涙』を思い出して、口絵を見た時点でぐっと涙が込みあげた。
 『セイジャの式日』では、彼方が自らのなかに抱えている決して消えない闇が露呈し、そして彼がそれを鎮め、飲み込んでみせるまでが描かれる。

 ひとは生まれ持った素養によって、さらに環境によって、自我を確立させてゆく。ひとの自我は時に凶暴に周囲や自分を傷つけ、貶めるけれど、ひとは自身の自我から逃れることは決してできない。
 作中で犀というキャラクターが創作に対する姿勢を語るシーンがある。柏尾も由良もその考えを否定したけれど、私は犀は正しいと思う。芸術家というのは自分の狂気を食い物にして生きてゆく種類の生きものだと思っている。そして芸術家の狂気によって生み出された美しいものを、今度は普通の幸せな人々が消費し、食い物にしてゆく。芸術というのはそういうものだと思う。創作のために現実を喜んで捧げる狂気が芸術を支える。
 犀は、由良も自分と同じ種類の人間だと言う。普通の人々とは違う自我の持ち主だと言われ、由良はそれを真っ向から否定する。本当だろうか? 本当に由良は自身のなかに眠る狂気を目覚めさせずに絵を描き続けていくことができるんだろうか?

 前編で提示されたこの疑問が、後編で優しくほどかれてゆく。
 高校三年生の頃から抱えるアンバランスさを未だ処理しきれていない彼方は弱い人間だな、と思う。『プシュケの涙』読了後に思っていたより、彼はずっと弱い人間だった。けれど頑なな強さではなく柔らかい弱さを持っている彼方だからこそ、他人のために走り、笑うことができるのだろうとも思う。

 結局最後まで、彼方のなかにいる吉野の姿を見ることは出来なかった。惜しいと思うし、残念にも思う。けれど、その「表に現さない」ところが彼方らしいところなんだろうなと、諦めるしかないのもわかっている。

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2011.05.06